わたしの存在理由とはなんなのだろうか。
新年からものすごく、ものすごーく重たい。
やりたいこととして上げるならたくさんある。今よりかなり体重は落としたいし、美脚にもなりたい。肌荒れもしているのでそれも治したい。最近ルーズになっていたお金の管理をきちんとして、貯金をしたい……。
やっと自分の夢を叶える前段階にきたのだから、ボイストレーニングをして滑舌を良くし、話し方も学びたい。
いっそのこと、引っ越しもあり。
そんな、そんなことを、ただやっていいと言われたい。
わたしは昔から承認欲求が強い。
自分でもよくわかる。その原因が何だったかも。
だけどそれは他人にはわからない。それは他人にはわからなくていいこと。
認めてほしいと願い、なぜわかってくれないと癇癪を起こすだなんて、理不尽だ。
そんなこと他人には関係ないと頭ではわかっているので、行動で示す。何も誰にも言わずに実行する。実現する。
それでも、考えずにいられない。世界を悲観せずにいられない
それでも、そうしていても、やはり。
孤独感が拭えない。誰といても、なにをしていても、ふと頭を過る。
「どうして生きているのだろう」
自分で望んだ訳でもないし、だからといってすべて決められているわけでもない。人生は博打状態で進む。
人間はそういうモノだと思っているのに。
片や有名になって、仕事もできる人。
片やなにも出来ずにうずくまって、相手の思い通りに動けず仕事ができないとレッテルを貼られる人。
そんな世界を悲観してしまう、世の中に文句を言ってしまう。
そういう自分にも嫌気が差して、辞めたくなる、人生を。
承認欲求と共に、昔から感じていることがある。
周りに影響されすぎている。特に、負の感情に。
自分じゃない誰かの失敗が怖いし、叱咤されていると身が縮み、大きな声や音にはビクつくついてしまう。
最近これらが性質として名前を持っていると知ったが、この二十数年生きてきてそのような性質だという人の話はほぼ聞いたことがない。
どうしても、生きにくいと思ってしまう。
今だって、そう。
誰かに共感してほしくて、認めてほしくて、この文章を書いているのかもしれない。
いつの間にか、世間一般のレールから外れてしまった自分に、「ここにいていいんだよ」と声をかけてほしくて。
存在理由なんて、自分のためだけだ。まずはゆるく生きていく
なので、わたしはここに宣言する。
《ゆるく生きていろ》と。
劣等感が強く期待されると重荷に感じ、見捨てられるとすがりたくなる。
「ここにいるよ」と叫んでも、響かない人には響かない。
わからない人にはわからない。
自分自身が自分をどうしようもないと思っている限り、凝り固まった概念に押し潰されている限り。
他人は思っているほど自分を見ていないなんて、本当にその通りで。
その通りだからこそ苦しくて。
前向きになるほど自分を殺しているようで。
でも、まずはゆるく、ゆるく……息をすることを継続しているだけ偉いと思いたい。
存在理由なんて、自分のためだけだと思いたい。
どうしてこうも、他人は他人に興味ないくせに他人に干渉したがるんだろう。
そうだとしても、ゆるく交わせる術を持って。
やりたいことだって、自分の力でやるならやっていい。そこに意義を申し立てるのなんて、本当はナンセンスだって突っぱねて。
受け止めないで、受け流して。
「頑張って」なんて言わない。
わたしは頑張っているんだ。生きることを。一生懸命、息を吸って。
ここまで立っていた自分を認めて、やったよって言ってあげたい
自粛していた2020年。
していなかった人も多かった、理不尽を感じたり辛いことも多かった。
逃げている自分に辛くなって、「社会不適合者だ」と嘆いた。
それでもやってきた2021年。
ここまで立っていたことをまず認める。
わたしはやったよってわたしに言ってあげる。
逃げたって誰も心を助けてくれないけど、逃げなくなって同じだ。
心が離脱してしまうくらいなら。
ゆるく、生きて。
ここにいると、知って。