日本の田舎で生まれ育ち、周りの日本人と変わらない環境で子ども時代を過ごした。それでも私はいつも周りの集団に馴染まず浮いていた。地毛が茶髪なのも、目の色が明るいのも、努力して身につけた英語も、全てが周りからハーフと見られる要因になった。それでもありがたいことに浮いていてもいじめられることもなく、いつも憧れのような眼差しで見られた。でも私も普通にコミュニティの一員になりたかった。見た目が違っても。

何か特別な存在として、ハーフが褒め言葉として使われる日本の社会

今振り返ってみると、ハーフという言葉に悪意も何もなかっただろうし、私をコミュニティから追い出そうとしていたわけでもないと思う。ただ世の中にハーフという褒め言葉があるから当たり前のように子ども社会でもハーフが褒め言葉として使われていた。

メイクの広告には「あなたもこれでハーフ顔」、英会話教室の広告には「外国人やハーフのように英語がペラペラに」。ごく一部のハーフのことを指してこのような広告が当たり前のように刷られていく。それを見た人は当たり前のようにハーフを褒め言葉として使う。何か特別な存在として。

でもハーフ顔は所詮日本人と西洋系がうまく混ざった人たちのことを指し、他のハーフは含まないことが多いし、ハーフが必ず英語を話せるなんてことはない。日本人以外の血が混ざった人は皆等しくハーフだけどハーフという言葉は多くの場合西洋人と日本人のハーフを指して使われているように感じる。私はたまたま広告が指しているようなハーフなのかもしれない。だから周りはハーフと言って私を褒めてくれるのかもしれないが、このハーフという言葉の使い方には受け入れ難いものがある。

自分に嘘ついてまで日本人らしくいるのには飽き飽きした

子ども時代の私はその褒め言葉はどうしようもなく受け入れられないものだった。何かに対抗するように毎日ストレートアイロンをかけ、マスクをして顔を隠すように学校に通い、英語を授業で話さなくなった。そうすれば日本人にコミュニティに少しでも馴染めるのではないかと期待した。自分に嘘をついているようで苦しかったのに、結局扱いは変わらなかった。どれだけ日本人らしくしようとしてもハーフだと言われた。私はそこから逃げるように、自分らしさを求めて海外の大学へと進学した。何も変わらないのに自分に嘘ついてまで日本人らしくいるのには飽き飽きした。

進学先には多国籍な社会を選んだ。ハーフですと自己紹介しても目立たない、いろんな「ハーフ」がたくさんいる大学。自己紹介の時にハーフですか?いいですね。と言われることも無くなった。自分で自己紹介した通りに周りに受け止めてくれるのがとても嬉しかった。初めて自分のアイデンティティが認められた気がして嬉しかった。気分によってストレートヘアーにしたり自分のナチュラルウェーブを生かしたヘアスタイルにしたりするのが楽しくて仕方がなかった。どちらにしても周りからの扱いは変わらないことが私にとっては新しかった。

私は私だ。ハーフが私のアイデンティティの中心にあることもない

自分のアイデンティティはどう頑張ったって一人きりでは作れない、周りに受け止めてもらって初めて自分に深く根付くものだと実感した。自分で作り上げるだけのアイデンティティは脆いが人から受け止めてもらえたアイデンティティはしっかりと自分の心に根を張る。髪がストレートでも、ウェービーでも、目の色が明るくても、英語ができようとできまいと、私は私だ。ハーフは私を形容するごく一部でしかないし、それが私のアイデンティティの中心にあることもない。日本で生まれ育った私のアイデンティティには日本人らしさがたくさんある。

先日日本に一時帰国して自分が変わったことに気がついた。もうハーフですか?いいですね。に何も苦しんでいない自分を。褒められているとも思わず、受け入れてもらっていないとも思わず、特別扱いされているとも思わない。にっこりと会釈して相手の言葉を受け入れる。褒めようとしてくれている相手に非なんてない。

それでも思う。いつか日本でもハーフが褒め言葉として使われなくなればと。そうしたら私も生まれ育った日本で自分の日本人としてのアイデンティティ形成できたのかもしれない。