私は整形の情報を発信するYouTuberだ。今まで数え切れないほどの誹謗中傷を浴び、そのたび泣いたり感情を殺したりもしたが、自分なりに努力して耐えてきた。素人上がりにしては上手くやってきたつもりだ。

そんな私が誹謗中傷に悩んでいたときに先輩に言われた、忘れられない言葉がある。

チャンネル登録者数が10万人を超えたばかりのときだ。事務所の大きなイベントを終えた後、帰りのタクシーの中で同業者の先輩と2人になった。この頃の私はとにかく誹謗中傷の言葉をひどく浴びており疲弊していた。

ネットでは嘘の情報が飛び交い、掲示板には常に数十人のアンチが張っていた。リアルタイムで悪口が更新される日々。「受け流す」ということをまだ知らなかった私は、彼らの手によって自分がどんどん悪い人に仕立て上げられていくような感覚にうんざりしていた。

先輩YouTuberが教えてくれた「キティちゃん理論」

私は会話の流れで、なんとなく先輩に「なんで私たちこんなひどい言葉ばっかり言われるんでしょうね〜」と冗談交じりに漏らした。すると、先輩からこんな言葉が返ってきた。

「私たちはキティちゃんなんだよ」。

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私は疑問符で頭の中がいっぱいになった。キティちゃん???あのキティちゃん????どういうこと????

先輩は続けてこう言った。
「キティちゃんを見て『可愛くない』って言う人って、キティちゃんの心情のことなんて全く考えてないでしょ。キティちゃんはキャラクターだから、自分たちが評価するのが当たり前で、それを悪いなんて微塵も思ってない。たとえそれが暴言でも。それと同じだよ。私たちはネットの中ではキャラクターなの」。

私はそれを聞いて、目から鱗が落ちた。
今までずっとアンチと自分の間にズレがある気がしていた。私は「人間同士の意見」として誹謗中傷を一つひとつ受け止め、誤解があればそれを解こうとしていた。でも誰一人わかってくれようとはしなかった。新しい粗を探して叩くか、自分の納得できるようにストーリーを展開して私を悪者に仕立て上げるか。なんでこうもわからずやなのだろうと思ったこともあった。でも当たり前だったのだ。私たちはあくまで彼らの「会話のネタ」でしかない。情報の真偽などどうでもいい。ただ面白ければ。

「意見」か「キャラクターへの野次か」判別するように

それから私の考えは少しずつ変わっていった。今まで散々気になっていたアンチの姿は霞んで見え、文字だけが宙に浮かんだように見えた。
そしてその声は対応すべき「意見」なのか、それともお茶の間で飛び交うような「キャラクターに対しての野次」なのか、その判別が上手くできるようになった。

「これは『轟ちゃん』に対する野次だから、一旦忘れよう」「これは次の動画に取り入れたほうがいいな」「これは後日動画のネタとして使わせてもらおう」というように整理がつくようになり、だいぶ心が苦しくなくなった。私は先輩の言葉を「キティちゃん理論」と呼び、今でも誹謗中傷で辛くなるたびに思い出す。

先輩は「キティちゃん理論」を語った後、続けた。

「でも私たち、本当は人間だからね」。

「キティちゃん理論」は発信者である私たちからすると、諦めの感情に近いかもしれない。私たちは本来キャラクターではない。誹謗中傷をする人と同じ、血と肉でできた人間だ。だが今の無法地帯になってしまっているインターネットで生きていくには、そんな風に考えないとやっていけないのかもと思ったりもする。

だからといって、誹謗中傷をする側の免罪符にはならない

一番いけないことは、誹謗中傷をする側が免罪符としてこの考えを使うことだ。
「お前らはキャラクターなんだから、何を言われても仕方ないだろ!」は暴論だ。これはあくまで私たちが心を落ち着けるための考え。暴言が許されるための言葉になってはいけない。誰かを非難する醜さが正当化されることは、未来永劫あってはならない。

誹謗中傷がなくならないのなら、した人を罰することのできる世の中にする他ない。どんな方法を使ってでも、この先心無い言葉に傷つく人が少しでも減るよう努めていくしかない。いずれ「キティちゃん理論」など無駄なことだったのだと思える日が来るのだろうか。殺伐とした四角の小さな世界を眺めていると、それはまだ遠い未来のように思える。