私には物心がついた頃から、文字やイラストなどの形あるものに自然と色がついて見えるという感覚があります。

今までの経験の中で思わず笑ってしまったお気に入りの例を挙げると、高校生の頃、とても怖いらしいと噂されていた数学の新任の先生が黒板に名前を書いた時、
名前の漢字が全てピンクと水色だけで構成されていてすごく可愛らしい名前に見えました。
また、毛筆の授業で友人がふざけて書いた「漆黒」という単語が、どちらの漢字も真っ白に見えて『純白過ぎる』と盛大に吹き出してしまったり、注意を促すためにあるはずの「足もとにご注意ください」の看板に描かれたイラストが、見事に虹色っぽい綺麗な配色に見えて気を取られ、二度見した際に滑って転倒したりと全く役割を果たしてくれなかったなどというものです。

「それ、役立ちそうだよね」。正直、全く役に立ってません

幼い頃から私のことをよく知っている友人は『それ、勉強で役に立ちそうだよね』などと言ってくれたりしますが、私の場合、正直言って全く役に立ってはいません。

何故ならたとえ同じ文字でも、その文字をどんな文字が挟んでいるか、その文字がどんな大きさか、その文字がどこに書かれているかなどで色が違って見えたりするからです。
むしろ学校のテストなどの時、同じ単語でも、勉強して覚えたときと実際に自分が解答用紙に書いたときの文字の色が異なるため『あれ?こんなカラフルだったっけ?』と惑わされてしまう事も多々あります。
「a」が全部赤色で、「b」が全部青色、などというように統一化されていれば、きっともっと学校での成績も良いはずなのに……。なんて自分の怠けをこの感覚のせいにする今日この頃。

当たり前だと思っていた感覚。父に打ち明けた、それは「共感覚」らしい

私と同じように複数の感覚を同時に感じることは誰にでもあり、当たり前の事だと考えていた幼少時代は、友人に何気ない気持ちで絵本の表紙を指差しながら『この字はピンクに見えるのに、どうして緑色にするんだろうね』などと言って、よく困らせてしまっていた記憶があります。

そんな日常生活を送っていくうち『自分の感性は他の人とはちょっと違うのかも』と薄々感じるようになり、『もしかすると私はどこかおかしいのかもしれない』と密かに悩んだりしたこともありました。

けれど小学生の頃、普段は照れくさくてあまり喋らない父にその悩みを打ち明ける機会がありました。
私はそこで、自分の文字やイラストなどに色がついて見えるこの現象は「共感覚」というものであること、『音を聞くとその味がする』『色に形を感じる』などというように、複数の感覚を同時に感じる人は知らなかっただけで他にもたくさんいるのだということを知りました。
私はそのとき『そっか、みんな違うんだ』となんだかホッとしたのを覚えています。

人はそれぞれ、その人がそれまでにしてきた経験も、抱いた価値観も、生まれつき持っているものも、育った環境も、投げかけられてきた言葉も違います。だから違って当たり前で、人は様々に異なるベクトルの感性を持っているからこそ、関わり合うことが楽しい。

前向きに受け入れた。「淡い水色と淡い青色」に彩られた私らしさ

そう考えられるようになってからは、私は、私だけが見える世界をすごく特別なもののように感じているし、ちょっと不便に思ったり悩んだりしたときもあるけれど「私らしさ」なのかなと前向きに楽しむことができるようになったと思います。

そして最後に、今回私が書いたこのエッセイのタイトルの中にある「世界」という単語は、文字の大きさが違っても、どんな文字に囲まれても、どんな場所に書かれていようとも、「淡い水色と淡い青色」という美しい配色が殆ど変わらない、私のお気に入りの単語です。
なので『絶対に入れたい!』と思いこのタイトルになりました。