2020年、私は政治家になった。
もし知らない街を歩いていたら、きっと誰もそうは思わない。政治家といえばおじさんばっかりで、誰も二十代半ばの私がそんな立場だということを想像しないからだ。

この感覚は、前にも経験したことがある。海外に住んでいる時に、よく現地の人に間違われていたときのこと。私は現地の言葉を話せなかったから、声をかけられても答えられずに困ったものだ。多様性という言葉は、自分がマイノリティになった時に意識するものなのかもしれない。
自分という存在を、なんとなくこんなヤツだろうと間違って想像されている気がする。
どこかでその思いに抗いたかったのか、駅前でしつこいナンパに遭遇したとき「私、議員ですけどそれでもデートしますか?」とマスクを外して言ってしまった。
お兄さん、驚かせてごめんなさい。年の瀬で寂しげな駅を見ながら、アメリカのロックバンドGreen Dayの「Minority」を叫ぶように歌っていた十代のときの自分を思い出した。

人生をやり直すために飛び出した世界で、過去を振り返り未来を見据えた

中学生の時に、私は学校に行くのをやめた。高校も入ったけど退学して、葛藤しながらいきていた。いじめられた訳ではない。いつの日からか生きる理由探しが始まっていた。
「なんで生きているんだろう?」
答えが見つからない度に、落ち込んで消えたかった。とある日、消えられない自分に腹が立った。本当に消えてやろうと思ったとき、私はどう試しても生きていた。だから、どうやったらまた人生をやり直せるのか、条件を考えてみた。
自分のことを誰も知らないところに行けば、生きていけるかもしれない。知らない国に行って、もう一度生きてみる。そう決めたとき、六畳一間の自分の部屋から出て、母に謝りにいった。
学校に行かなくてごめんなさい、迷惑かけてごめんなさい。
久しぶりに見た母の顔は痩せていて元気がなくて、記憶の中の母の姿と違っていた。初めて引きこもっていた年月を実感した。

世界は広かった。私なんてちっぽけだ。
世界に出たら、悩んでいた日々が嘘かのように、毎日が愛おしく、知らない国の人たちとのコミュニケーションに心奪われた。
スーパーモデルを目指している年下の女の子や、毎日時間通りに熱心に礼拝するクラスメイトたち。世界の人々は私の過去を、拙い言語でも面白がって聞いてくれた。ユニークと表現された時には文字通り、視野が広がった感覚があった。
今を生きる喜びをかみしめながらも、どこか過去を思い出してはモヤモヤする自分がいた。なんであんなに自分を責めて生きていたのだろう。
どうすれば、普通の生活ができたのだろう?

私が前向きな青春時代を送れなかったのはどうしてだろう

私にとって、生きる答え探しというのは、仮説づくりだ。頭の中であーだーこーだした先に、「もしかしたら◯◯かもしれない」という仮説にたどり着く。その仮説をもとに、行動してきた。
どうすれば前向きな青春時代を送れたのか、という問いを考えながら世界各国の仲間と接していたら、「悪かったのは私じゃない。教育かもしれない」。あたかも世界の真実を見つけたかのような感覚だった。
そんな思いで、私は最初のキャリアから教育の仕事を選んだ。そして、いまはたくさんの若者たちの前で自分の人生の話をする立場となった。

どれだけ人に期待され、求められるようになっても、私の生きる答え探しは終わらない。目の前の愛しい子どもたちに熱を注ぎ、経験を積みながらも、今の教育活動だけでは彼らの未来を少しも支えてあげられないのではないかと思う日々が続いた。
私の人生の長さだけでは足りないものを、変えようとしているのかもしれない。そう悟った時に、また新しい仮説にたどり着いた。「教育だけじゃダメだ」。そう思ったことが、政治活動に繋がっている。

新型コロナという渦中で、私はどう生きていくのか

そして今、私は教育者であり、政治家である。
未曾有の危機的社会情勢の中での年越しで、新年の挨拶とともに「今年“は”いい年になるといいですね」。と、心の内が伺えるようなメッセージが届く。
今の状況に良し悪しをつけるには、ちょっと早い気がする。なぜならまだ、私たちは渦中にいるのだから。
2021年は、教育者であり、政治家である私という一人の女性が、この渦中でどう生きていくかを表現する舞台である。だれもその意識を持って、生きている同い年はこの国にいないだろう。だから私は、開拓するのだ。新しいわたしを開拓することが、未来の子どもたちが羽ばたく土台づくりになっていると信じて。