2020年はいろいろあった。本当に。年始、およそ一年前に、大きな仕事を任されて、てんやわんやしながら、タスクをこなした。悩みながらでも、自分なりに一生懸命やった。必死だった。そんな中、コロナ禍も重なり、様々なことに苦心していくうちに、生活がないがしろになった。それでも仕事をがんばって、がんばって、がんばりすぎて、折れた。折れて、11月から現在に至るまで休職している。幸い、元気になってきたし、次の職も見つかった。より自分のやりたいことに近い仕事に、年始から就く。

センスや才能は絶対ないと決めつけ、それを突きつけられるのが嫌で

コロナ・休職と、わたし自身の生命や人生を問われることが多い1年だった。明日死ぬかもしれない、明後日死ぬかもしれない。「死」がいままでで一番近くにいた1年だった。

わたしは、このままで後悔しないだろうか。やりたいこと、成し遂げたいと思っていても、できていないことがあるのではないか。それができないまま、例えば、死んだり、身体が動けなくなったりしてもいいのだろうか。わたしは、何がしたいのだろう。どういった人間になって、どういう風に人生を歩んでいきたいのだろう。今までの人生で、一番重く、痛切に問われた年だった。

わたしは、今まで誰にも話したことがなかったが、文章、エッセイを書いてみたいと思っていた。小学生のころ、江國香織や森真理のエッセイを読んで、自分も、自分の日常を、人生を、軽やかに文章にできたらどんなに楽しいだろうか、と夢想していた。
でも、それを実現するために、行動に移したことは、今までない。「文章を書く」という行為自体、センスや才能が問われると思っていた。わたしには絶対そんなものない。端から決めつけて、それを突きつけられるのが嫌で、なにもやらなかった。

一日のうちで自分に正直になれる時間があるのは、有意義だと気づいた

そこからおよそ10年以上経っているが、書いてみたい、という欲求は、わたしの中に残り続けている。目を逸らしてきたやりたいことが、今年突きつけられた問いによって、心の中を大きく占めるようになった。
欲求に正直になるべき時が来た、と思った。もう20年以上生きているので、少々の失敗も笑い飛ばせるくらい、顔の面も厚くなった。それに、自分がやりたい、実現したいと思い続ければ、やめなければ、失敗はない。センスや才能など関係ない。自分がよければ、それでいい。なにより、人生の後悔を残さないよう、行動したい。自分のために書くべきだ、という思いが、今年は強くなっていた。

新しくパソコンを買い、手始めに短い日記を書いた。思ったこと、書きたいことを素直に書くことを心掛けた。わたしの性分として、飽きっぽいので、早々挫折したらどうしよう、と思っていたが、文章を書く、自分の気持ち・気分を整理しながら、筆に乗せるという作業は、全然飽きなかった。
いまの気持ちはどう、とカウンセリングするように自分に問いかける。一日の終わりに、そうした作業があると、自ずと自分がどういった人間で、どういった思い・考えを抱えて生きているのか、都度、棚卸しできる。自分に正直になれる時間が、一日のうちに少しでもあることは、有意義なことに気づいた。

今のわたしを残す。50代くらいの時、どんな文章を書いているだろう

そこから、以前から度々目を通していた媒体『かがみよかがみ』へ応募するようになった。提示される募集タイトルに対し、自分の身や人生と照らしながら、考え、それを文章に起こすという、往復作業は楽しい。ありがたいことにエッセイは、採用されたものもある。好きなことが認められることは、とても嬉しい。いままであまりなかった感覚の喜びだった。

2021年も、引き続きこつこつ書いていこうと思う。自分が満足すれば、それでいい。それが、誰かに見てもらえたり、褒められたりすれば嬉しいけれど、まずは、自分がどう感じるか、嬉しいか、悲しいか、楽しいか、つらいか、自分の感情を大事にして、自分のために文章を書いていこうと思った。自分の心とか気持ちを分かってあげられるのは、結局自分しかいない。それは、こんな大変な時代だからこそ、疎かにしてはいけない。わたしは、文章を書くことで、自分の心の良い話し相手であり続けたい。

長期的な目標になってしまうが、50代くらいで、エッセイ集を、自主出版でよいので出せるといいな、と思っている。そのためにも、今のわたしを文章に残そうと思う。それまでに、わたしは、どんな文章を書いているだろう。どんなことを感じて、人生を過ごしていくのだろう。そして、どんな表情で生きているのだろう。健やかに、自分に正直であり続けてほしい。いまからひっそり、楽しみにしている。