「他者に求められる自分でありたい」、この渇望はいつからこんなにも私に染み付いたのだろうか。誰かに求められなければ、期待された生き方をしなければ、息が出来ないくらい苦しかった。

年齢と共に上がる期待水準が私を苦しめた

大学時代まではあまり意識する事なく、周囲の期待を叶えてきたと思う。
親の小言をうまくすり抜けながら、グレることもなく、それなりに思春期を楽しみ。大学生になると、更なる他者からの期待を求め、インターンや海外留学に勤しみ、就活ゲームもすり抜け大企業へ内定。周囲の期待を叶えながら、上手く生きてきた。そんなつもりになっていた。

でも、社会人になってから、状況が変わっていった。
Visionのある素敵な会社の社員として社会に貢献しつつ、会社に依存せずに個人としてのスキルを築きつつ、女性としての清潔な気品を失わず、誰かの彼女、妻として性的魅力を磨きつつ、いつか母となるため健康な精神と身体を維持する。すべて、出しゃばりすぎず、引っ込みすぎず、適度な位置を保って。

求められる水準が、期待される条件が私の知らないところでどんどんと拡大していった。反比例する形で、条件クリアまでのタイムリミットは確実に短くなっていった。どんどんと息が詰まっていくのを感じつつ、何もできない日々が続いた。28歳を迎え、とうとう息が詰まりそうになる私に、コロナは突然訪れた。

他者評価される世界からのシフトに戸惑いを隠せなかった

肌荒れを隠すためだけのメイクを毎日して、無理やりの笑顔で先輩の顔色を推し量ることもない。なぜか男女交互で座らされる会社の飲み会で、男性上司に仕事と人生を説かれるもない。仲良くもない同期女子会で、自慢のスパイスが混じった愚痴や同期の発言に無理やり社会のカーストを押し付けられることもない。

社会とのつながりを無理やり断捨離した生活の中で、やっと他の誰かではなく、自分を優先する事が出来る気がした。「他者から求められる自分でありたい」という思いに押しつぶされて息が出来なくなりそうになった自分を、解放してあげられる気がした。
自分は何がしたいのか、自分は何を求めているのか、意識はどんどんと自分自身に狭まっていった。まるで第3の思春期の様に、世界はどんどん小さく、自分ひとりになっていった。

でも、残念なことに自分だけの世界にも出口はなかった。
「他者に求められる自分でありたい」という渇望が染み付いた私は、「自分の意思」があまりにも薄くなっていた。なりたい自分も成し遂げたいこともやってみたいことも、自分の中には答えはなかった。

コロナ禍の中逞しく生きる人々の中で、私は自分に絶望した。何もない自分に。
2021年の覚悟を語る私は、まだこの絶望の中にいる。

こんな風に生きてきた自分の過去を、過去のことと諦める潔さも持たず、こんな自分を励ます美しく、力強い言葉も持ち合わせてない。他者への評価に頼ってきた私は、自分が自分に何を期待するのか、一つも思い浮かばなかった。

そんな絶望の中をぎりぎり息をしながら漂っている。28年にわたって刻まれた「他者からの期待」に対する意識は、限りなく「自分の意思」が影を潜めてしまったことは、どんな名作映画も流行りの韓流ドラマも助けにはならない。

絶望の中で自己評価力を身につけたい、私自身のために

じっくりと、この絶望と向き合っていくしかない。ぎりぎりでも仕方ないから、絶対に息が切れないようにだけ気を付けて。染み付いた「他者に求められる自分でありたい」という思いに流されてしまいそうになるけれど、求められる自分になるためにではなく、自分が求める自分を探しつづけたい。
社会に合わせて自分を着飾るのではなく、このままの私が美しく生きるために社会を変えていく、そんな気概をもって。
2021年、自分のために息をし続けたい。