「わたし」ってなんだろう。
子どものころ、そんなことにずっと頭を悩ませていた。しとしと雨が降り続くような日や、冷たい風にさらされて体がじりじり冷えていくような寒い日は、そのまま雨に溶けていってしまうのではないか、かじかんだ手が指先からぽろぽろと崩れて飛んでいってしまうのではないかと心配だった。そしてそのまま雨や風と一緒になって散り散りになってしまうのだと。

まわりの世界と自分と、一体どこに境界線があるというのか、どこまでを「わたし」と呼んでいいのか、わたしにはさっぱり分からなかった。

まわりのものとの違いが分からず、「わたし」はそこらへんに埋もれた

そんな風に考えるきっかけは小学生の時に言われた言葉だったと思う。
「真似しないでよ」
友達と服が似ていた、持っている鉛筆が同じ柄だった、好きな漫画が一緒だった……そんなたまたまが重なる度に言われた言葉だった。

冷たく言い放たれる、拒絶の言葉。
わたしは怯えていた。人と一緒だと嫌われてしまう。

嫌われたくないわたしは、必死に「わたしだけ」のものを探した。わたしだけの服、わたしだけの持ち物、わたしだけの言葉、わたしだけの感じ方……でもそんなものは見つからなかった。自分の手にする物も口にする言葉も考えることも、全部そこらへんにあふれているものばかり。考えれば考えるほど、全部模造品に見えてしまう。これといった特徴のない自分と、まわりのものとの違いが分からなくなる。
そのうちに、「わたし」はそこらへんに埋もれていってしまった。

人との違いが見え、埋没していた「わたし」がはっきりしてきた

そんなものだ。これといった特徴もなく、みんな埋没しながら生きているのだ。
でも雨の日や風の強い寒い日は、じわじわと湧きあがる子どもの頃の思い出が、余計に指先を冷たくしていた。

転機が訪れたのは大学生になった秋のことだった。
好きな人に「好きだ」と言われた、たったそれだけのこと。
まるで花が開いたみたい。冷たい指先がほどけていった。
それだけで、まわりの世界と切り離された「わたし」が少しずつできあがっていった。

簡単なもので、人から認められた、肯定された、それだけで埋没していた「わたし」がはっきりしてきた。人との違いがだんだんと見えてくるようになった。

大切な誰かに認められた安全な世界で、本当の「わたし」は顔を出す

味付け海苔が好きなこと、目玉焼きには醤油をかけること、辛い物が苦手なこと、バッタは触れるけど毛虫を見ると鳥肌が立つこと、好きな色、好きな匂い、今目に映るもの、気温や体温、血液が流れる音……今まで色のなかったものが鮮やかに見えてくる。どれもくだらない、なんでもない、でも「わたし」を形作る大切なもの。

大切な誰かに認められた、安全な世界じゃないと、本当の「わたし」は顔を出さない。

「わたし」ってなんだろう。

結局のところまだ明確に答えることはできない。でも今「わたし」について悩み考えている「わたし」こそがきっとその答えなのだ。悩むわたしも、迷うわたしも、今まさに感じているものそのものが、「わたし」だけの特別なものなのだ。