私は「食べること」が苦手である。

小さいころから、少食で、いつも摂食障害ぎみだった。お腹がすくことが人に比べて少ない、少し食べるだけで気分が悪くなってしまう。
学校で、持ってきたお弁当を一口も食べられずに、まるごと残してしまうこともよくあった。
外食という行為も、私にとっては楽しいというよりは、いつもじんわりとした苦痛を帯びていた。一人前を食べられないから。
「食事」というもの自体に抵抗があり、嫌いだった。

自分でもわかってる。自分の身体に栄養が足りていないことは

それもあって、体重は常に人より少なかった。病院で「痩せすぎ」と判定されていた。家族が自分の外見を、「ガリガリだよ」と指摘してくるたび、辛かった。鏡に自分の骨ばった腕や手首が映っているのを見たときや、体重計に乗っているとき、いつも悲しく思った。

食べると吐きそうになる。人と同じ量を食べれなくて、もどかしい。
自分でも、自分の身体に栄養が足りていないことは、感じていた。なんとなく、わかるのだ。そういうのは。

その足りない栄養を、代わりにどこかで補給しなければならない。
どこかで、栄養を摂らなければ、ふらふらになって死んでしまう。
けれど、私の口は上手く食べ物を受け入れてくれない。

そうしてたどりついたのは、音楽だった。

栄養分は音楽から吸い取った。イヤホンはまさに点滴と一緒

iPhoneにコードを繋ぎ、イヤホンをつけ、好きな曲を聴く。
電車に乗るときも、通学中も、家にいるときも、片時も手放さない。
携帯できる音楽プレイヤーは、私の相棒みたいなものだ。

ご飯が食べられないときでも、音楽は聴けた。
身体に曲が充満していき、そしてエネルギーが補給されていく。
私の中で、楽しさや生き生きとしたものが息を吹き返す。
痩せていても、自分が頼りなく思えても、満たされるのだ。

ベッドに寝っ転がりながらイヤホンをつけて、曲を聴く。
イヤホンの白いコードが耳に繋がっているのが、なんだか点滴みたいだなと思う。
私にとって、これはまさに点滴と一緒だ。食物から栄養を摂れないときに、代わりに私に栄養をくれるもの。

もちろん、音楽で空腹や食欲は満たされない。音楽だけで身体の健康を保つことはできない。
けれど、曲を聴くことによって心に充填されていくものは、明らかに私を生かし続けているのだ。

美しい旋律を、私は食べて、救われて、生きている

いつでも私のそばには音楽があった。
私はHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン HSPとは、生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」)でもあるので、混んだ人混みや電車の中が苦手で、一人で外を歩くと緊張したり、がやがやした人の声が気になりすぎてしまう。
でも、道を歩くときは必ず音楽を聴きながらにすると決めたことで、普通に生活できるようになった。
私にとっての定番は、米津玄師の『YANKEE』というアルバムで、再生したら最初から最後までゆっくり聴く。大好きなそれがあれば、たとえ長時間電車に乗るときであっても大丈夫だった。耳元で曲が鳴っていることで、安心することができた。
家族と上手くやれずに疎外感を感じているときや、一人になりたいときも、自分の部屋で音楽を聴いた。繰り返し繰り返し、お気に入りの曲を聴き続けることは、私の精神を安定させてくれた。

美しい旋律を、跳ねるようなメロディを、そこに紡がれた歌詞を、私は食べて生きている。
何年もかけて、音楽を摂取していった私の身体は、きっと幼い頃よりも、ずっと強くなっている。そうだと、思う。
記憶のなかに散りばめられた、色鮮やかな曲たちは、いつしか私の細胞に深く刻まれて、行き渡り、やがて私という人をつくる。

心を豊かにするだけじゃ、人は生きていけないのかもしれない。
けれど、私にとって、食事の代わりに音楽があったように、心と「何か」をリンクさせることによって、救われることはある。
今日もイヤホンをつけながら、音楽に守られて、私は生きている。