中学校の国語の授業で枕草子を習ったとき、「秋は夕暮れ」とあるのを見て、清少納言は素敵な人だなあ、と感じた。
さらに、夕日がさしている中を鳥が飛ぶのが素晴らしい、と枕草子は続く。
黄色からあかね色、さらにうす紫から紺色へと赤い夕陽が高い秋の青空を柔らかく染めていく神秘的な色合いの中を、小さな影が進んでいく、自然の雄大さと生き物のちっぽけさを感じる光景。
鳥ではなく飛行機だったら、枕草子は私の気分を切り取った文章になる。小さな違いはあったけれど、千年前の雅な女性の感性と、私の感性はそっくりなんじゃないかな?
この気づきは、悩みながら毎日を過ごしていた中学生の私に、小さな自信を与えてくれた。
でも、私は生き物である鳥ではなく、機械の飛行機が飛んでいたからこそ、秋の夕暮れを好きになった。

嫌いな轟音を見上げたら、そこには未知の景色があった

私の人生で一番美しい夕焼け空と私が出会ったのは、中学生の時だ。残暑が過ごしやすくなってきた頃、何でもない帰り道で、ふと足を止めた時のこと。
涼しい、秋らしい風が吹いていた。家に早く帰ろうと住宅街を急いでいた記憶がある。なのに、飛行機が飛ぶ轟音に、私はつい上を見上げてしまった。
飛行機はうるさいし、化石燃料を消費して飛ぶ。私が好きな静かな時間だけではなく、頭の上で現在進行形の環境破壊が進んでいるような気がする。そんなわけで、私は飛行機が大嫌いだった。なのに、飛行機が飛ぶ轟音が聞こえると、空を見上げて飛行機の姿を探していた。空の上から音が聞こえてきたと思った場所より、こぶし一つ分先を探すのが、飛行機を見つけるコツだ。
そんなわけで、私はアスファルトと家だけに向き合っていた顔を上げ、空の紺色から紫色へ、西にむかって視線を動かしていく。
繊細に、明確な境界線がない秋の夕暮れ。天頂の冷たさを感じる紺色から山々の稜線を照らす優しい黄色へ移り変わる上品な色彩。
炎が空をおおっているかのように赤く染まる夕焼けではなく、夕日の最後の輝きを優しくとどめた、日が暮れた空に、私は出会ったのだった。
上品に移り変わる色に私が魅了されたとき。空をすべるように進む飛行機が、その色の中にそっと溶けこんでいるのを私は見つけた。
鮮やかな夕焼けの空を白く反射する飛行機の姿が空と調和しているのに気づいた瞬間、私は泣きそうになった。素晴らしい映画を見た後よりも、心の底から力と一緒に感動が湧き上がってきて、この瞬間に世界のすべてが詰まっていると私は思ってしまった。

一番美しいと思った光景、雄大な空が私に教えてくれたこと

たそがれ時という昼でも夜でもない時間に包まれた住宅街と、大空の中ではちっぽけな存在でいて、それなのに世界を変えてしまうかもしれない飛行機。
飛行機は地球温暖化を加速させ、自然の風景を破壊してしまうものなのかもしれない。
だとしても、自然にとっては、世界を変えてしまうかもしれない飛行機も人間もただそこに存在するだけのものであって、すべてを変化し続ける色で包み込んでいる。
それに、飛行機が存在することで、人間の生活が便利になっていることを考えれば、飛行機は誰かを笑顔にしているといえる。二酸化炭素を排出して、地球温暖化にもつながっているけれど。
誰かを幸せにしようとする人間の意思は、時に自然や他の人間を傷つけてしまう哀しさ。空港で見ると大きな飛行機が、自然の中だとあんなちっぽけに見えてしまうほど、自然は広大なこと。それでも、人間の力は世界を変えられるほど強い。
そう、目の前の光景に語りかけられたような気がして、中学生の私は今までの人生の中で最も感動したのだったのだ。
大学生になって、中学生のころよりも経験も増えて、世界についても詳しくなった。それでもまだ、中学時代の秋の夕暮れよりも美しい空には出会っていない。
時間は空の色と共に移ろうもの。世界は雄大なもの。嫌いなものがあるからこそ、一生の宝物に出会えることもあること。世界は美しくて、もろくて、そして優しい。そう教えてくれた原風景が、私にとって一番きれいな空だ。