『結婚』なんて、当たり前にできると思っていた。
当たり前にして、当たり前に子供を授かって、産まれたら子育てして。それに、幸せを感じて。
そんな想いを、当たり前〝じゃない〟と思ったのはいつからだろう。
27歳の今、結婚とは程遠いところにいる。
幸せは人それぞれなのに、結婚しなきゃいけない雰囲気に呑まれて
高校卒業してすぐ社会人になり、恋人ができた。
その時の自分は、なんとなく「結婚できるんだろうなあ」なんて楽観的に考えていた、
それから、別れや出会いを繰り返して、21歳の時、今までで一番の恋をした。と、思う。
端から見れば引くほどのめり込んでいた。
慣れない料理に相手の部屋の掃除。喜ぶ顔が見たくて、怠けた恋とは違うと、「好きだから」と言い聞かせて。
今振り返ると依存のようなものだ。たった一人の誰かに、必要としてほしくて。
そうこうしているうちに、10代や20代前半で結婚した人たちの離婚ラッシュに出くわした。
そして、また思う。
──なんのための結婚なのか。
幸せなんて人それぞれなのに。しなきゃいけない雰囲気に呑まれて。愛情が情だけになったり。どうしてそこに〝幸せ〟を見出だしてしまうのだろう。
『結婚』の話をされても、心はぴくりとも動かなくなった
25歳を過ぎた辺りからついに言われるようになる。
「まだ結婚しないの?」なんて。悪魔の囁きだ。
21歳から頑張っていた恋は出会いも含めて約3年余りで終わりを告げた。頑張れなくなった。それも伝わったのだろう。呆気ないものだ。
その後も恋人はできたり、それなりに出会いを見つけるべく行動した。そして、最後には頑張れなくて辛さだけが残る。
気づいてしまった。
自分は『結婚と結婚したい』『結婚という世間からのステータスがほしい』だけなんだと。
『結婚』という契約さえあれば、必要なくとも必要とせざるを得ない状況が作られるのだ。それにも満たされたかった。
気づいてからは楽になった。元より、自分は他人には興味がない人間だ。いつも受け身でいた自分の恋は、そこからぷっつりと途切れた。
それでも出会いは求めていないといけないという、一種の強迫観念が自分を支配するときがある。そうなると、様々な出会いの場を経験する方向へシフトする。
飲み会、合コン、街コン、知人の紹介、マッチングアプリ……。
必死だ。
ありがたいことに男女問わず好意を寄せてくれる人もいた。
しかし、自分自身が相手を好きになれず、身体の関係から始めれば……と実験的に自分の感情を分析したこともあった。
それでも、例え相手から『結婚』の話を持ち出されても、自分の心はぴくりとも動かなくなった。
本当にどうでもよくなってしまったのかと、安心と不安が押し寄せ感情が流れ出した。
「結婚したい人」と『結婚』する。いつか出会えるその日まで
出会いも諦めた頃、行きつけになるbarを見つけた。
そこは時間の流れが緩やかで、居る人たちは皆平等。年齢や性別問わず、話したければ話し、飲みたければ飲むだけ。
そんな空間で、マスターにぽそっと「他人に興味が沸かない」と溢した。
マスターは「うんうん」と話を聞いて、区切りがついたところでようやく、「あなたはとても優しいんだね」と応えた。
優しくなんかない。必要とされたいくせに、他人に興味はないし、相手が好意を持とうがどうでもいい。
マスターは続けた。
「興味がないんじゃなくて、優しいから他の人の事をたくさん考えて、抱えきれなくなるのかな。それを全て〝考えなくていいよ〟って包み込んでくれる人がいいね」
何かが、溶けた気がした。
承認欲求の強い自分は、『結婚』することで自分を認めてもらえるような気がしていた。お付き合いだけでも、相手がいるということに満足していた。
それでも衝突し、時に別れがある。
それが怖くて逃げ出した。逃げ出して、他人の事を考えなくていいように、興味のないフリをして。自分だけ相手の事を考えていると、いつか見返りがほしくなるから。
それを「優しさ」と諭してくれて、「今すぐ必要がないならまた今度」と次があるかのように言われたことが嬉しくて、ホッとした。
適齢期になれば結婚しなくてはならない、とがんじがらめになっていたのは自分自身。心に壁を立てて、好意を弾き返して逃げていた。
今は時期じゃない、それだけ。『結婚』するとなれば、またその世界線で選択肢を探せばいい。
『結婚』は紙切れ一枚の契約。そういう制度。
もちろん、その制度がこの国では重要ということはわかる。でも、今は楽しくやっているので必要がない。
わたしは「結婚したい人」と『結婚』するために、いつか出会えるその日まで、それは取っておくことにする。