自分の気持ちを残したくて始めたブログ

4年間続けたブログを閉めることにした。
何も分からないところから、ひたすらにインターネットで調べて、自分だけのホームページを作り、私はそこでブログを書いていた。お気に入りの場所だった。
ブログを初めたきっかけは、その時の感情を忘れないようにするためだ。
あらゆることに対しての感情を忘れてしまうのが惜しかった。
目にした感動や嫌なことさえも自分がどう感じたのかを保存しておきたかった。

誰かに読んで欲しい文章というよりも、自分の気持ちを残している記事がほとんどだったので4年間も運用していたというのに、一通を除けば記事に対しての反応がなかった。

たった一通だけ、とある記事に対してのメールが届き、その内容は私の心に深く残るものとなった。
もらったメールを読む度に、私はなぜか泣いてしまう。

届いた一通のメール

その記事というのは、私が短大へ進学し、前期早々にして中退した記事だ。
当時は学校を辞めてしまったら、もう人生が終了、死んでしまう…!お先真っ暗だと真剣に思い詰め、もがいていた。
周囲からも「甘えるな!どこにも就職できないぞ」の大ブーイングで、でも学校には行きたくないので、どうしようもできずに電車で何度も泣いていたことを思い出す。

今、現実的に振り返り、考えてみたならば、学校を中退しても働くことは可能であり、同じ境遇で結婚している友人もいる。
本人次第でなんとでもなるということに、改めて気がついた。
そしてむしろ、あの時に逃げて回り道したおかげで出会えた人や出来事があった。

そのことが18歳の自分ではわからず、想像すらつかなかったので、歳を重ねて、あそこまで思い悩む必要はなかったのだと思い、書きたくて書いた言葉だった。

その記事に対して届いたメールの主旨は、身の上話から始まり、周囲から応援されて上京したにも関わらず短大を中退し、地元に戻り、人生もう終わりだと思っていたところを、まさに記事に助けられ、本当にありがとうございますという感謝の長文だった。
それから、来年また四大を受験し直すということだった。

純粋によかったと思った。
いつかの自分の背中も押せた気がした。
今でも時々思い返しては、こちらが勇気をもらう。いつまでも湧き上がる心の泉を感じるのだ。
読む度に泣いてしまうのは、嬉し泣きとは違う、悲しいわけでもなく、苦しかったね、という共感の涙に近いかもしれない。
まだこの気持ちをきちんと的確に言葉にすることはむずかしい。

自分のための文章から、誰かのための文章へ

私に初めての自信をくれたのは、たくさんの同じ時間を過ごした、家族でも友人でもない。
顔も名前も知らない匿名の誰かだった。
知らないけれど、確かに同じ気持ちを共有している。
あの時メールをくれた子は今どうしているのだろうか?

それからもしばらくの間は、自分を知る足がかりのようなブログを書いていたが、今後は、自分のためだけに書く言葉よりも、誰かのエネルギーになるようなもの、必要とされるものを書いてみたいと思うようになった。
とりわけ苦しんだ経験、悩んだ経験は、誰かの役に立つことができるかもしれない。
今のブログはもうそろそろ卒業する。新しいところへ行ってみたいのだ。
私には、書きたいことがたくさんある。

まだ味わったことのない、いろんな感情を感じてみたい。
たくさんのポジティブな感情と怖いけれど少しネガティブな感情も。
どんな感情もきっと無駄にはしたくない。そこから学びとれることは何だろう。

言葉の世界には夢がある。何にでもなれる気がする。だから誰かを救うこともできるんだ。