それまでの私は、自分の望むものを努力で掴んできた。友達が遊んでいる間にピアノの練習をして、コンクールで勝ち進んだ。高望みだと言われていた難関高校への受験は、まだ家族が寝ている朝4時から起きて勉強して、ぎりぎりボーダーラインで合格した。目標の実現を強く願い、そこに向かって努力をすればなんだって掴める。

だから、正月が過ぎたこの時期になると、「掴む」ことができず、「諦めた」ことを思い出す。 

ぎりぎりで入学した地元の進学校での1年目、私は見事に落ちこぼれた。赤点ばかりとって、先生たちから劣等生のレッテルを貼られていた。

それでも、私は小学生の頃からの夢があり、今考えれば不相応な偏差値の学校を早々に志望校に設定した。

2年、3年と徐々に成績は上がっていったが、それでも模試などで一度も納得できる成績を取ることはなかった。しかし、これまで目標を掴んできた経験から、今回もその志望校に合格するという目標を掴めるものだと確信していた。

目標には到底及ばなかった自己採点結果を持って、担任と面談…

センター試験翌日、教室でクラス一斉に自己採点をしたときのことを今でも鮮明に覚えている。得意ではない地理から答え合わせし、いつもより高い点数を見て気持ちをあげようと考えていた。結果はいつも通りの点数。その後の教科も、おおむね模試での点数と変わらず、目標としていた点数には到底及ばなかった。

自己採点後、担任との面談がはじまった。受験する学校を決める面談である。一人ずつ順番に職員室に呼ばれていく。なかなか帰ってこない人、泣きながら帰ってくる人、それをみて、あれこれ想像して待つ教室。

あまり覚えていないが、普段あまり勉強の話をしない女の子とこれからどうなるんだろうかと話していた気がする。

自分の番になった。担任は、ひどく疲れている様子だった。そういえば、クラスの副委員長が、ご飯も食べずに面談し続ける担任を気遣い、チョコレートを持って行ったが、食欲がないと受け取ってもらえなかったと言っていた。

担任はパソコンの前に私と並んで座り、私の自己採点の点数を打ち込んでいった。点数と志望する大学や学部の情報をいれると、判定が出るシステムらしい。どこの大学を見るかと聞かれ、かねてからの志望校を言った。D判定だった。

志望校を変えるつもりはないという私に言った、担任の言葉

思った通りの結果だったので、私は驚かなかった。担任は変わらず苦い顔をしていた。他にどの学校を見るか、どの学校を考えているかと聞かれた。私は他の学校は考えていないと言った。

担任はそれは難しいから他の学校にしようと言ったが、私は引かなかった。1年生の頃から目指していた学校で、それ以外の選択肢はなかった今までもそうしてきた。これから二次試験の勉強をたくさんして、努力すれば大丈夫だ。

「諦めざるを得ないな」
担任はそういった。そこから担任は、同じ勉強ができる他の学校をいくつかシステムに入力し、学校の情報と判定をプリントアウトしてくれた。もちろん、D判定ではない偏差値の低い学校だ。

私はそのプリント用紙を自宅に持ち帰り、担任から言われた通りのことを母親に話した。母は少し声のトーンを落として、「浪人も考えてもいいよ」と言ってくれた。

私が初めてした選択。辛くても諦めることで人生が進んでいく

次の日の朝、いつも通り4時に起き、担任からもらったプリントを床に並べた。寒い部屋の中、ストーブを背にし、2時間半で結論を出した。私はB判定の学校を受験した。

当時、これまでの人生の中で「諦める」ということがなかった私は、担任からそういわれたのが衝撃だった。自分の努力が足りないことがある。結果を出すことができないことがある。我が家の経済状況を考えると、浪人なんてとてもじゃないけど言えない。

これが「諦める」ということなのだ。私は初めて、「諦める」という選択をした。

それからの私は、なにか「諦める」度に、担任の言葉を思い出している。
大学院を中退し、小学生のころからの夢を諦めたとき。2年半付き合った恋人と遠距離恋愛の末お別れをし、ふたりの将来を諦めたとき。

その時の決断は辛いものではあるが、「諦める」ことで、人生が進んでいく。

高校3年の冬、「諦める」という大人の選択を初めて行った。もちろんこれからも、私は掴んでいく努力をするが、生きていく上で、それだけではないことを覚えた。
その決断のときには、心の中でこうつぶやくのだ。

「諦めざるを得ないな」と。