彼の家に転がり込んだのは、付き合ってすぐのことだった。
25歳、決して子どもではない私たちはハグだってキスだって、それ以上だって抵抗なく行えてしまう。
故に、男性の部屋に入ることへの敷居も学生の時に比べればだいぶ低く、大袈裟なイベントではない。

初めて訪れた彼の1LDKの部屋は甘い匂いで満ちていた。
ナチュラルに差し出されたスリッパを見て、きっと何人もの女性が出入りしてきたんだろうな、と本能で思う。
別にそれが悪いことだとは思わないけれど。

「これなんて匂い?」
「これ?ああ、何だっけな。」

アロマディフューザーを手に取り、律儀な彼は「クリアエアー、だってさ。」と笑顔で答えていたが、私は笑った時に唇の片側だけが持ち上がる彼の癖に夢中で、内容なんてどうでもよくなっていた。

行ってきます、で彼の部屋を出て、ただいま、で戻ってくる日々

お泊まり、の回数が徐々に増え、それに伴い生活に必要なものが揃っていく。
最初に彼の部屋に置いた私物は、コンタクトレンズの保存液だった。
綺麗に整頓されている彼の部屋に自分のモノを増やすことに最初こそ抵抗があったが、それよりも女のいる部屋になってきていることに少しの優越感だって感じるようになっていた。

例えば下着だとか、基礎化粧品だとか、さらには生理用品まで。
彼の当たり前の生活に、私の当たり前が重なって、そして混じる。

そうすると私も居心地が良くなってしまい、自分の部屋に帰る頻度が少なくなるのもごく普通のことで。
行ってきます、で彼の部屋を出て、ただいま、で彼の部屋に戻ってくる日々。
キッチンや水回りの使い心地も、自分以外の誰かがいる空間も、私の生活に馴染んでいく。

彼の部屋は一人暮らしにしては随分広く、私が急に上がり込んでもなんの差し支えもない。
どんどん増えていく私物。服も靴も、化粧品もアクセサリーも。
毎日の生活を営むには必要不可欠なものたちが揃っていく。さも元からここに居ましたみたいな顔をして。

新しく増える二人分の物たち。部屋が姿を変えていくのは嫌じゃないの?

「あれ、買いに行こうか。」
「あれ?」
「衣装ケース。いるでしょ。そろそろちゃんと、お前の分の収納も準備しなくちゃ。」

二人分の洗濯物を取り込みながら彼は言う。
決めれば行動が早い彼と、その日のうちにインターネットで探す新しい家具たち。
Amazonで買った衣装ケースはダブルベッドの下に仕舞い込んで私だけの収納に。
部屋のあちこちにメジャーを当てながら、ああでもないこうでもないと試行錯誤して選んだ洒落たハンガーラックには、お気に入りのアウターを2着ずつかけた。

新しく増えるものも二人分。
お揃いのパジャマ、夫婦茶碗、箸、マグカップ。
彼が一人で生活するために作った部屋がどんどん姿を変えていくのは、嫌なことではないのだろうか。と引っかかっていたものの、
どこか楽しそうに部屋を改造していく彼を見て、水を刺すのはよそうと口を噤んだ。

なし崩し的に始まったはっきりしない生活。もう見ないフリは出来ない

この部屋はすっかり二人のものになっていった。
彼ひとりの匂いしかしなかった部屋に、私の匂いが混ざっていく。確実に、着実に。
なし崩し的に始まった同棲のようなものは、形をはっきりさせないままに時間だけが過ぎて大きくなっている。

同じベッドで目覚める朝、交代で作る夕食、照明を落としてから黙って3秒、どちらからともなく這わせる唇。

毎日が楽しい。好きな人がいる生活って楽しい。
彼も楽しそうにしていて、それが何よりも嬉しい。
幸せばかりを抱きしめて、ふとした疑問を見ないフリしていた。

「ねえ、」

でも気になり出したことは、解決しないと心の容量を食い続けてしまう。
ここに転がり込んで1ヶ月弱、私は彼と向き合う覚悟を決めて口を開いた。

「ん?」
「今さ、毎日一緒にいるじゃん」

聞けなかった、これは何?って。

「これって同棲、なのかな」

誰かと一緒に住むという決断はキスするよりセックスするより難しい

同棲、なんて口に出した瞬間、ああ重い。重たい言葉だ。
ナチュラルに問うたつもりが、変な汗をかいてしまっている。
だって、誰かと一緒に住むと言う決断はそんなに簡単なものじゃない。
キスするよりセックスするより、全然難しいもの。

だからこそ欲してしまった。彼からの一緒に生活しようと意思を。
私はここにいて良いのだという確信を。

「ごめん、ちゃんと言ってなかったね」

目を合わせずにぽつんと漏らした私に、彼は少し驚いた様子だった。
そして私の両手を丁寧に彼ので包んで、大袈裟に真面目な表情を作り言葉を続けた。

「一緒に住もう。同棲、しよう」

はらり、と身体から鎧が剥がれ落ちたような感覚。
それはやがて安堵に変わり、栓が外れたように涙が出てきた。

「ああ、なんで泣くのか」
「なんか、安心してしまって」

そうか、私は不安だったのだ。
約束もないままに彼のものが私のせいで形を変えていくことが。
嬉しいはずなのに、怖かったのだ。

なんでもない顔で未来を語る彼。それがこんなに嬉しいなんて

男よりも女の方が形式にこだわるというのは本当らしい。
このまま何も言わない彼の優しさにあぐらをかいていられるほどの度胸は持ち合わせてなかったらしい。
どうも私はずるいから、約束で守られていないと上手に泳げないみたい。

同棲記念日だね、と甘えた声で彼に言う。半ば冗談のつもりだったが、彼はすぐさま壁掛けカレンダーの今日の日付に花丸を書き込んだ。

「そのナントカ記念日って、なんか良いね。これからもめっちゃ増えるじゃん。プロポーズ記念日とか結婚記念日とか?」

なんでもない顔をして未来の話をする彼。
気付いていないんだろうな。それがこんなにも嬉しいということには。

大変なこともあるのかもしれないが、とりあえず今はこの幸せと彼に溺れさせてくれ。
私のただいまはここに使う、と私は借りていた部屋を解約することをようやく決意した。