骨付き肉を素手で食べるところを見られたい。今日のデートで。

待ち合わせたイタリアンは小洒落ていて、お誂え向きだ、と私は思う。骨付き肉ならなんでもいい。メニューを開くと、あった。緊張と興奮で胸を高鳴らせ、彼に聞く。お付き合いしてまだ1ヵ月、デートは4回目。言葉少なだけど、一緒にいると落ち着く彼に。
「ラムチョップを、頼んでいい?」
「うん」
今日、私は、はしたなく食べているところを見られたい。そして、見せてほしい。
だって次こそ、ありのままでいられる人とお付き合いしようと決めていたのだ。

昔から「しっかりしてる」と言われる長女で、どんな人ともまあまあ話せる子どもだった。引っ越しが多く、コミュニティに適応しようと必死になったが末のことだ。
思春期になり女子校へ進学した。卒業までのびやかに個性を育て、一方で恋愛においては極度に潔癖になった。女としての自分の理想像は、共学大学へ進学後、より強固になる。聞き分けと礼儀の良い、ステキなオンナノコになった私は、恋人にうまく甘えたり、素を見せたりできないまま、別れるときに爆発しては「重い」と言われることを繰り返し、社会人になっていた。
うまく恋愛ができない。どうすれば自然体でいられるのかと、満身創痍で考えたとき、思いついたのが、「はしたなく食べる」ことだった。

どうぶつなんだと実感出来て、本能が満たされる、はしたない時間

はしたなく食べることにこだわりを感じるようになったのは中学生のころだ。家族でよく行くイタリアンがあって、チキンの丸焼きを頼んだ。慣れた手つきで肉をさばく父、きれいなルージュで上品に骨をくわえ込む母、声を漏らして夢中で貪る弟と私、ひとり2枚じゃ足りないおしぼり。
誰かと一緒に、手で肉を食べる。これぞ食欲というはしたなさの一切をゆるされながら、貪ることに悦を感じた瞬間だった。どうぶつなんだという実感が、脳みそにビシビシぶっささって、本能が満たされて……こんなにわかりやすく、生きるための瞬間を共有できるって、なんて幸福なんだろうとうっとりした。それは最も私の素に近いところだった。
付き合って日が浅いうちから、そういうところを見せられる人。私と一緒に、生きるために食べてくれる人を見つけたい。そう思った。

彼は私という女を受け入れてくれたのに、目を合わせられなくなった

さて、運ばれてきたラムチョップは美しい。いよいよ骨を手で持って、盛大に噛みついた。ちらと彼を見ると、引いている様子はない。なんだ、私、大丈夫じゃないか!そう思ったとたん、やっと悦びが沸き上がってきた。
「おいしいね」
彼に言いながら、2本目にかぶりつく。その矢先だった。彼が、にこにことスマホをかまえた。写真と分かったので、肉をくわえて笑顔を作ろうとしたその瞬間。
私はいまさら、自分の口元が、びっくりするほど気になったのだ。さきほどとは違う緊張で心臓がうつ。焦って、目を合わせられなくなった。結局ごまかすみたいに薄笑いをうかべたまま、せっかくのラムを手早く食べた。ああ、どうして? 彼は、骨付き肉をバクバク頬張る私という女を受け入れてくれて、私も確かに楽しかったのに。

なんだ、もう心から彼に恋しているんだ。早くはずかしくなくなりたい

味もわからず私がラムを飲み込むところを、彼はまだ写真にとっていた。汚れた口元でやめてよ、と言ったとき、あっと腑に落ちた。
なんだ、私、純粋に彼にかわいく見られたいんだ。もう、心から彼に恋をしてるんだ。
カッと、血が集まるのがわかった。彼は笑顔のまま、自分も手で肉を食べはじめた。私はそれを見て、むずむずと嬉しくて、でもものすごく恥ずかしくて、そのあとは、はやく恥ずかしくなくなりたいな、と思った。
そのときは、すっかりすべて見られている、家族という関係なのだろうなと思った。

それから3年がたって、夫となった彼と私は、日々生きるための食卓をともにしている。暮らしていてわかったことだが、彼はそこまで骨付き肉が好きではなかった。
それでも私はときおり我慢できずに、鶏の手羽元なんかを大量に焼いてしまう。大口を開けても、もうあの日の恥ずかしさはない。かわりにそこは、はちきれんばかりの幸福感で満ちていて、やっぱりにやにや笑ってしまうのだ。