「私のライフワークは土瓶を作ることです」
以前私が働いていた陶磁器ショップで、若手陶芸作家の方が仰っていたことです。私が今まで出会った人の中で、ライフワークを見つけていた人はこの人だけだったと思います。
私はその頃、働くことに対してどこか斜に構えていました。家を借りてご飯を食べ、自分の好きなものに少しだけお金が割けたら、仕事はお金さえ貰えれば良いと考えていました。やりがいはどの仕事もあるといえばあるといえばあるし、ないといえばない。飽き性で新しい物好きなので、特別何かに打ち込んだことはありません。そんなことを考えているより、好きな音楽を聞いているほうが充実感がありました。
そんな私にも、ライフワーク、という言葉がずしりと重く感じました。その方の土瓶に対する真摯な思いに触れたからかもしれません。一生かけて何かと向き合い研鑽し続けるなんて、私は全く想像がつきませんでした。
ちょっと見えてきたライフワークの意味
それから私は出産などもあり、陶磁器の販売からwebサイト制作の仕事へ転職しました。なんとなく、面白そうな職業訓練を見つけてそこで少し勉強して、運良くパートですが今の職場で働けることになりました。
最初は分からないことだらけでした。今も分からないことだらけです。でも案外、分からないことのほうが面白いことに気付きました。webページの制作はトライアンドエラーの繰り返しです。デザイン案通りに表示されるまで、修正しては確認、修正しては確認…。上手くいかずに悩んでも、はっとひらめいて試してみたら、意外と簡単な方法で完成できた、ということもあります。出来なかったことが少しずつ出来てくる、それを実感したとき、気分は高揚して軽快なステップでも踏みながら酒を誰かと交わしたくなります。
今はその分からないことが分かる、知らないことを知る喜びが、私を働かせていると言えるかもしれません。あの時陶芸作家さんが仰ったライフワークという言葉のラの字くらいは見えてきたように思います。
働くことに情熱を捧げる人を見ると体が熱くなる
ただもう一つ、働くということを考えた時、私の中で強く印象に残っている台詞が「月と六ペンス」という本に書かれています。
「おれは、描かなくてはいけない、といっているんだ。描かずにはいられないんだ。川に落ちれば、泳ぎのうまい下手は関係ない。岸に上がるか溺れるか、ふたつにひとつだ」(月と六ペンス 新潮文庫 作サマセット・モーム 訳 金原瑞人)
これはなぜ絵を描くのかと半分馬鹿にされながら発された問いに対する、まだ無名の画家ストリックランドの返答です。彼は妻も子もある身で一から絵を描き始めました。
この一節を初めて読んだときは、強い羨望と、何に対しても情熱を持たない自分への恥ずかしさが頭から爪先までを占領して、体温が高くなるのを感じました。
今の仕事に対して、ストリックランドのようにそれをせずにはいられないほど切迫した情熱があるわけではありません。私のライフワークは今の仕事の延長線上にあるんじゃないか、というワクワクは少し感じていますが、言ってしまえばなんとなく始めてなんとなく続けているに過ぎません。もう一度今ストリックランドの台詞を読んでも共感ではなく羨望で胸が震えるでしょう。
本当は働くことに意味なんて作りたくないのかもしれません。どうしてもせざるを得ないくらいの情熱を、求心力を仕事に感じたいです。それはもしかしたら賃金が発生する仕事ではないかもしれません。でもその拒絶できない力を感じたとき、私は胸を張って「これが私のライフワークです。」と言えます。働く理由は働かずにはいられないからです。それに出会うまではせいぜい知的好奇心でも満たしながら働きたいと思います。