「銭湯は世の縮図だ」と、いつも銭湯のお湯に浸かりながら思う。老若男女、肩書きも関係なく、人がなんの理由もなく集まれる場所だから。

銭湯が大好きで週に最低は1回、最高で4回通っていて、仕事が忙しい時や忙しくない時、元気な時や身体が疲れている時と関係なく隙あらば銭湯に行く。一度浸かってしまうと、銭湯独自の温まり方を身体がずっと覚えていて、忘れることができないのが魅力なんだと思う。沸き上がる地球のエネルギーに応援されているような気持ちになるのだ。なんだか恋愛みたいだ。

子供からご老人の身体、みんな違う。そして、とても「美しい」

『東京都浴場組合』による適切な入り方は、熱いお湯には5~10分程度、ぬるいお湯には20分程度と。このガイドラインに正直に従って、お湯に浸かる。

お湯に浸かっている間手持ち無沙汰なので、無心で銭湯にいる人たちをただ観察する。例えば、お母さんに髪を洗ってもらう女の子、仕事終わりなのか濃いめの化粧をたっぷりのクレンジングオイルで落としている若い女性、世間話に大いに盛り上がり、浮き足立って見えるおばさん達。もちろんそこにいる人たちは私も含め、みな裸だ。

こうやって小さい女の子からご老人の裸を見られる機会なんて、お風呂以外にないなと思いながらぼーっと眺めていると、皆、身体のかたち、肌の色、体型など、頭の先からつま先までどれも全く同じものがなく、そのすべてがそれぞれの人にとって正解のように見え、とても美しいなと感じる。

理想の体型や美しい人を決めつけ、それを基準にするのはおかしい!

私は10代の時、雑誌に載っている「女性の理想体型は?」という特集を読み、実際自分の身長で計算をしてみると、体重、バスト、ウエストの全てのプロポーションがそこに書かれてある理想体型と、全く違う数字で大きなショックを受けた。

自分の身体が「間違っている」「そのままじゃだめだ」と、メッセージを受けた気になり、なんとか理想体型に近づこうとして、そこから食事を極力減らすという過激なダイエットを始め、身体を壊した経験がある。

それからダイエットはもう懲り懲りになり、あの時から体重を気にしないで過ごした結果、7kgは肥えてしまったけど、現在は思いっきり元気だ。二度どあの体重には戻れないけど、私は全力であの時のことを笑ってやろうと思う。だって、今はご飯を食べることが何より好きで、楽しくて仕方がないから。こんな楽しみを知らなかった自分は本当に惜しい。

毎日テレビや電車、駅のホームなどで脱毛、整形、ダイエットの広告の数々をたくさん見かけるのだが、メディアが提示している「美しい人」とは、一体どこを基準にしているのだろうか。

そこに提示されている「美しい人」は、長いまつげのくっきり二重、白くムダ毛のない肌、手脚が長く小さなサイズの服が着れる華奢な身体と、企業はそのような女性を「美しい人」だと決めつけ、まるで何もしない自然な姿でいる女性たちを間違っているかのように突き放しているかのようだ。

決められた美しさではなく、世界には「素晴らしい身体」が溢れている

私たちは、それをありとあらゆる場所で目にし、美の基準をそのまま頭の中に入れてしまっているんじゃないだろうか。もちろん、その基準に沿った人たちも美しいと思う。だけど、誰かが決めつけた美しさの定義より、全ての人が違和感を持つことなく生きていける社会の中にも、溢れ出すほどの美しさの定義があると思うのだ。

世界には、本当にたくさんの素晴らしい身体がある。自分の身体をそのまままるごと受け入れることは難しいことだけど、受け入れた先にある景色にはもっと素晴らしいものが待っているかもしれない。

私は銭湯に行く度に、身体の多様性を身をもって知ることができる。お湯に浸かっている間、頭のどこからか天才バカボンのパパの「あなたはあなたでいいのだ」と、いう天の声が聞こえて来るのだ。