記憶というのは、曖昧なものだ。

正しいと思っているものは、本当は正しくないかもしれない。見たものも、聞いたものも、本当は見聞きしていないのかもしれない。

それでも――多少の粗があっても、思い出というのは、とても尊いものだ。

幼い頃行った場所には、埼玉よりもずっと多くの星が瞬いていた

思い出とは、極めて身体的な記憶なのではないかと思う。だから、頭の中の記憶が少しくらい間違っていても、思い出が嘘だなんてことにはなりえないのだ。

そして、日々の中に身を置き、ふと何か懐かしい思い出がよみがえるとき、その引き金となったのはまさしく身体や五感といったものではないか。身体的経験、五感を通して、今の私とかつての私がリンクするというのは、とても素敵なことじゃないだろうか。

少し抽象的な話になってしまったが、私の場合でいえばこういうことになる。

夜、車で家まで帰ってきて、後部座席からおり、星空を見上げたとき。毎回ではないが、ときどき――つまり、五感がぴたりとかみ合ったとき、昔のことを思い出す。

両親の運転で埼玉から、途中で観光をしつつ、母親の実家のある山口県まで向かった。着いたのは夜で、すぐそばに海があった。見上げると、埼玉よりもずっと多くの星が瞬いていた。

近くに海はないはずなのに、実家に帰ると感じる磯の香や波の音

正直なところ、小学生のころの旅行の記憶はほとんど薄れてしまっているのだが、この体験は本物だと思える。

実際のところ、私が埼玉で見上げる空は、あの日に比べればずいぶん控えめな数の星しか光っていない。冬であればオリオン座が確認できるくらいで、それ以外にはぼんやりした星がぽつぽつとあるくらいだ。

それに埼玉は内陸県、つまり海なし県で、磯の香りや波の音などするはずもない。でも、なんとなく、母親の実家に帰ったときのにおいと空気を感じるのだ。実際にはしていない遠出の気分が、私を少しわくわくさせる。

そういうと「身体的感覚も曖昧じゃないか」と思われるかもしれない。でも、夜家に帰れば毎回感じる、というわけでもない。きっと、言葉で表せないほど身体的な、思い出の一番大事な部分――星の数や磯の香りとは関係のない核の部分が、ときどきかちりとかみ合うのだと思う。

「実家に帰る」と思えることは、記憶とリンクしているのかもしれない

改めて考えてみると、その思い出を引っ張り出すのは、単に景色や空気といったものに対する身体的な反応だけではないかもしれない。母の実家だから私にとっては、“帰る”のではないのだが、小学生の私は、山口に行くことを“帰る”ことだと認識していた。

そして今の私は、自分の真の実家であるこの埼玉の家にいつも“帰る”のだ。そうした概念、心の部分までもがリンクしているとしたら、もっと素敵に思える。

最近、運転免許を取得して、自分で車を運転できるようになった。今は実家暮らしだけれど、就職したら実家を出て一人で暮らすかもしれないし、結婚して家を出ていくのかもしれない。

そんなときに、車でこの埼玉の実家に帰ったら。夜、家の前に車を止めて、空を見上げたら。今よりもずっと鮮明に、昔の私とリンクできるのかもしれない。そう思うと、胸を躍らせずにはいられない。

それを楽しみにするとともに、運転に自信がついたら、山口まで車を走らせたい。そこで見上げる海辺の星空が、成長した私の身体と心に、また新たな思い出を刻み込んでくれるような気がする。