夫婦別姓や事実婚、異性間に限らない愛の形…昨今はさまざまな媒体で「愛」について、そして「結婚」について語られるようになった。

小学校3年生という、「愛」とか「家族」とか、「自分」とか「他人」とか、そういうものがまだよくわからなかった頃、私の両親は離婚をした。
そのせいか、「永遠の愛」というものに対しては幼いころから懐疑的で、20歳を過ぎて結婚が幾分現実味を増す年頃になっても、それに対する憧れや理想は、周りの友人たちと比較すると少なかった。

結婚を選ぶかは人それぞれ。結婚だけが幸せではない

現在27歳。すでに子育てに奮闘している友人もいるし、つい最近婚約を決めた友人もいる。パートナーがいなくて少々焦りを抱いている友人もいれば、パートナーがいてもプロポーズはいつかとやきもきしている友人もいる。もちろん、結婚に全く関心のない友人だっているし、かくいう私は、現在交際中の彼がいるが具体的な結婚の話はまだ出ていない。

いろいろな立場があって、でも皆が当たり前に自分の現状を語り、不満や、ときには自慢話をする。結婚という大きなライフイベントが現実味を帯びる年齢になった今、結婚がゴールじゃないというのは、実際に結婚をしていなくてもなんとなくわかるようになった。
結婚の先には子供についての葛藤、子供に恵まれたとしても子育て、子育てが落ち着けば介護…と、考え事は次々やってくる。
もちろん、この過程では家庭内でのいざこざや悩みも尽きないだろう。そんな現実を知ってしまったからこそ、「結婚を選ぶかは人それぞれ。結婚だけが幸せではない」という風潮が私の周りにはきちんとあって、焦ることも、焦らないことも、どちらも受け入れてもらっているような気がしていた。

二人の関係性を証明するものがこの世にないことが怖くなった

そんなことをぼんやりと感じていたある日、母が脳梗塞で倒れた。幸い、初期段階での発見だったこともあり症状は軽く、現在はリハビリを終え、日常を取り戻している。
しかし、母親が病院で検査を受けていると連絡があったとき、それはそれは胸がざわついた。

落ち着いた今思うのは、それが母ではなく、私の彼だった場合、私にその連絡が来るのは一体いつだったのだろう、ということだ。逆もしかりだ。自分が病気や事故で突然倒れた時、病院の人が彼に真っ先に連絡してくれることはない。
私たちには共通の友人が数名いるが、双方の両親とは面識がないし、着信履歴も残っていない。言ってしまえば、本当にただの口約束だけでつながっていて、二人の関係性を証明してくれるものがこの世に存在していない。そのことが、ふと、怖くなった。

どんな意見をもっていようが、すべて正しい選択だ

現状の日本の結婚制度には改善点がたくさんある。たとえば、なぜどちらか片方が苗字を変えなくてはならないのか。「この上ないお揃い」だなんて、前向きに考えられればいいのかもしれないが、いやいやかなり、面倒くさい。

それでも、病院で目を覚ました時。視界に入るのは、白い天井やお医者様ではなく、あなたであってほしい。心配そうに、でも、無事を確認した安堵の表情を浮かべて、ただ私の手を握り、見つめていてほしい。そう思ってしまってからは、私は結婚という証明が猛烈に欲しくなってしまった。

「結婚という形は選ばない」あるいは、「ひとりで生きていく」ことを選ぶのだって、もちろん正しい。悩んで選択する人も、はじめから意思の固い人もいるだろうが、どんな意見をもっていようが、すべて正しい選択だ。だから、自分がどの立場にいようと、だれの意見も否定する権利はない。こうやって自信をもって答えられる環境そのものは、絶対に大切にされるべきだ。

「結婚、どう思う?」そう聞かれたら、今、わたしは迷わずこう答える。「したい!」