コロナという未知の感染体が世界を支配し始めて早1年。何事もなかった日常が、実は違和感を放置したまま進んでいたことが浮き彫りになって、愛されていない私は幻想だったということに気づいた。
「愛されキャラ」だったが、心から分かり合える友人は少なかった
私は生まれてきてから、「愛されている」と心の底から実感することがほとんどなかった。でも不思議なことに、周りから見た私の印象は「愛されキャラ」だった。なぜ私と周りとでこんなにも捉え方に矛盾が生じてしまうのか。
確かにオープンな性格をしている私は友人関係を築くのは得意だったが、心の内を見せられる、つまり本音でぶつかりあえる友人はほとんどいなかった。上っ面の薄い友人関係ばかりが多く、心から分かり合える友人がいない私には、「愛されている」という実感はとてもじゃないが持てなかった。
「結婚式ではスピーチをしてね」と言える関係の友人がいた
そんな私にも親友と呼ぶべき存在はいた。
高校2年生の頃、仲良くなったきっかけはお洋服の趣味が合うとか、好きなアイドルが一緒とかそんなありきたりなことだった。
だけど結局は、お互い通じるものがあったのだろう。
当時私は彼氏に振られたショックで、周りの人も離れていくくらい引きずっていた。彼女もなかなか酷い恋愛をしていて、周りから理解されない状況だった。お互いが周囲の理解を得られない状況だったからこそ、分かり合えることに深い喜びを得て、信頼関係に繋がったのだろう。
高校を卒業して彼女は短大、私は4大でお互い保育の道を志しながらも、頻繁にお互いの近況を語り合った。「結婚式ではスピーチをしてね」なんて話をするくらい、この先もずっと関係性は続いていくのだろうと思っていた。
小さな違和感が積もっていった末に言われた「もう縁を切りたい」
彼女が短大を卒業し保育士になった頃、私は大学3年生。保育という道に憤りを感じ始めていた。このまま保育士というレールに乗ることが嫌になってしまったのだ。
そんな自分の不甲斐ない気持ちを、愚痴として彼女にぶつけていたが、それでも私を勇気づける言葉を送ってくれた。
ただ、最近私の話をしても全部彼女の話に持っていくな、という違和感も持ち始めていた。そんな小さな違和感が積もって彼女に対して不信感を抱いた頃には、彼女も同じような違和感を抱えていたのだろう。徐々に会う回数も連絡の頻度も少なくなっていった。
そして久しぶりに近況報告をしようと連絡をとると、「もう貴方とは縁を切りたいです」といったような内容と共に、私への厳しい言葉が並んでいた。
私はショックを受けた。
これまでの関係はなんだったのか? なぜ私は彼女からそこまで言われないといけないのか? 彼女にだって非はあるだろう?
自分だけ責められている状況に納得がいかないまま、彼女との友人関係に幕を閉じた。
いま振り返れば、誇りを持って働く彼女に私は甘えていた
それから約2年後の2017年春。友人のSNSを通して、彼女が結婚したことを知った。
約束していた結婚式のスピーチを、私が果たすことはなかった。
今振り返れば、働き始めて1年目、社会の厳しさや保育の現実を知りながら、日々必死に働く中でも仕事に誇りを持って取り組んでいた彼女に対し、保育士という仕事を冒涜するような言葉を並べて怠惰な日々を送っていた私に怒りを感じるのは当たり前だし、そこまで追い込まれていた気持ちを汲み取れなかった私にも責任はおおいにある。
そして私は、彼女から愛をもらいすぎていた。
彼女に甘えて、私はもらうばかりになり、愛を返すことができなくなっていた。
「彼女から愛されていない」という思いは幻想なのに、その不安を抱いた瞬間から現実になってしまう。私はこれまでもそうやって自ら愛を手放してきたのだと思い知った。
これに気づけたからこそ、心から言える彼女に対しての感謝と謝罪の気持ち。そして過去の自分に対しても、そのような選択をさせてばかりでごめんねという思いを伝えたい。
彼女が結婚したことを知った私は、お祝いをしようと勇気を出してLINEを送ってみた。「勇気を出して連絡くれてありがとう」と彼女は返信をくれた。
このときのことをゆっくり振り返りたいと思い、「飲みに行こう」と誘ってみて、彼女も「行こう!」と言ってくれたが、今でも実現はしていない。