コンタクトをしなければ、色しか分からないくらい目が悪い私が、初めてメガネをかけたのは、小学3年生だった。保健室で行われた視力検査で、ランドルト環の開いている向きをすべて逆に答え、眼科に行くよう指示されたのだ(途中で「右はこっちで、左はこっちだよ」と看護師に言われたことまで覚えている)。

眼科医から言われた忘れられないひとこと

母に連れられて訪れた眼科では、再度視力検査が行われた。機械を覗きこみ、くっきり見えたりぼやけたりする気球の絵を見ていれば、数値で視力が分かるらしく、私が左右を間違えているわけではなく視力が悪いということが、証明された。その後いくつかの検査を経て、最後に眼科医からの問診を受けることになった。

眼科医は中年の男性だった。顔はよく覚えていないが(目が悪かったからかもしれない)、朗らかな様子だった。私とその医師が向かい合い、母は私の左斜め後ろに座っていた。
メガネを作りましょう、などと言いながら、医師は急に、私の母に「お母さんは目が悪いですか」と聞き、母は「はい、コンタクトをしています」と答えた。世間話のようなトーンだった。
それを聞いた医師は、合点したようにこう言ったのだ。

「それでしたら、遺伝ですね。目の形がお母さんそっくりです」

そうですかね、なんて母は笑っていたが、私はこのひとことが今でも忘れられない。
大げさに言うと、何もかも救われた感じがした。私の目が悪いのは遺伝なんだ、と当時の私は衝撃を覚えた。その発想はなかった。

自分が感じていた責任の無用さ

小学生だった私は、幼いながらに「目が悪くなった責任」を感じていたのかもしれなかった。机に向かう姿勢が悪いと目が悪くなるとか、テレビに近づいて見てはいけないとか、さまざまな場面で言われてきた。私は目を酷使してきたつもりはなかったが、このような注意は例にもれず再三受けていた。
暗いところで本を読んだこともある、ブルーベリーは苦手、心当たりは十分にあった。

「遺伝ですね」のひとことは、私のこれらの罪の意識を、一瞬で軽くしてくれた。しかも母の目を精密に調べるわけでもなく、ただ「目の形がそっくり」という理由だけで。たしかに、私は目だけでなく、顔全部が母と瓜二つではあるが。その医師の朗らかさと相まって、私が感じていた責任のようなものの無用さが濃く浮かび上がった気がした。
「ああ、これは私の生活習慣などという些末なものではどうにもならない、遺伝という、過去から脈々と受け継がれてきた真理なのだ」と思えた。

このひとことで感じたことを、私は今日まで上手く使えてきたように思う。常に自分以外に罪をなすりつけているのは成長に繋がらないが、どうしても無理だったときや心が弱ったときに、最後の逃げ道として「私のせいだけではないかもしれない」と思えることは、私のセーフティーネットになっている。そして、そう思うときにいつも、明るい「遺伝ですね」という医師の声を思い出す。このひとことのおかげで、私は明るく楽観的になれた。

思いがけず誰かを救う言葉を、私も囁きたい

あのときの医師は、「遺伝ですね」のひとことが、まさか誰かの心を救っているとは、思いもしていないに違いない。まずはここにお礼を述べ、いつかは私も誰かの支えとなれるひとことを、何気ない場面で伝えられたらと思う。頑張ることはもちろん大事だけど、疲れたら肩の力を抜いて。いつも笑顔でいれば大丈夫。どうしても苦手なことがあるなら、それは遺伝じゃない?社会人になった今だからこそ、必要な人に届くよう囁きたい。