舞台女優を目指し、24歳で上京した私の東京ライフはキラキラと輝いていた。

根拠のない自信と勢いで、劇団へ。想像以上に稽古は過酷だった

地元関西の大学を卒業し、しばらくは社会人として働いていたのだけど、子供の頃からの夢をちゃんと諦めきれていない自分がいた。女手ひとつで私を大切に育ててくれた母を安心させるには、普通の仕事に就き、普通の人と結婚して、幸せな家庭を築くべきだと思ってはいたが、それで本当に私は幸せになれるの?と自問自答を繰り返していた。

そんなある日突然「やっちまえ!ダメだったときはその後に考えれば良い」と思った。まさに根拠のない自信とほとんど勢いだったけど、そのときの私にとっては十分な動機だった。今思えばそれが「若さ」だったのだろうか。

憧れていた俳優さんが所属する劇団の入団テストに合格し、毎日が大冒険という感じだった。舞台俳優という生き物は、思っていた以上に不思議で美しい人たちだった。テクノロジーが発達し、スマホやパソコン等のツールを使って誰とでも簡単に繋がれるこの時代に、紙のチケットを買って直接会場に赴き、生身の人間が発する声、エネルギー、世界観を全身で受け取る。なんともアナログで崇高なエンターテインメント。身体が資本で商売道具。動けてなんぼ。大声出せてなんぼの世界。

でもそれだけじゃない。出会う作品によっては、魂をボロボロになるまで削り、大切な人たちを傷付け傷つけられ、むき出しにされた自分の醜悪さの中に、人間であることの美しさを発見できたりする。俳優にもいろんな人がいて、稽古場はある種のカウンセリングのようだった。それもかなり荒治療の。

上京して2年目の年末。翌年2月に幕開けする「ロミオとジュリエット」のジュリエット役に抜擢された。他の団員達に比べて、経験も実力も足りなかっただけにプレッシャーはかなり感じていたけれど、全公演をやりきった後にどんな景色が見えるのかが楽しみでもあった。稽古は想像していた通り、いや、想像以上に過酷だった。

ちなみに私は「あの頃は大変だった」とか「本番以外は本当に辛かった」などの類の話をするのはあまり好きではない。テーマパークのキャラクターが子供たちの前で着ぐるみを脱ぐような、夢を奪ってしまう愚行な気がするし、なによりダサい。地元の居酒屋によく居た、昔の武勇伝を大声で熱弁しているおじさんを見て「こうはなりたくない」と思っていた。でもなんだか今ならおじさんの気持ちが少し分かる気がする。

少し有頂天になり、私のキャリアはこれから!という時だった

いろいろあったけれど、600年という時空を超えてシェイクスピアにボコボコに打ち負かされながらも、なんとか千秋楽を迎えた。共に戦った役者の仲間たち、いつでも寄り添ってくれて支えてくれた制作の皆様、舞台監督、衣装さん、照明さん、音響さん、演出家、誰が欠けても成しえなかったことをやってのけたと思う。

そしてなんと最終日には、今でもテレビや映画で大活躍されている日本の偉大な俳優さんがご観覧になり、後日お褒めの言葉まで頂いた。「素晴らしかったよ~。体当たりのジュリエットだったね」と言われ、緊張のあまり何も返せなかったのが悔やまれる。「体当たりするしかなかったのです」とかなんとか言えば良かった。

終演後、少しばかり有頂天になっていた私は、違う舞台にも出演し、私のキャリアはこれから!という時だった。

ある日の稽古中突然左半身が痺れ、後日念のためMRIを撮った結果、右脳にスーパーボールくらいの腫瘍が見つかった。中心部に近く深い脳幹近くにあったため、手術は不可能と言われ様子を見ていたのだが、徐々に左半身は動かなくなり、稽古どころか日常の生活が難しくなった。

すぐにでも外科的な治療を受けなければ、最悪の場合命も危うくなると言われ、迷う間もなく実家に戻り関西の有名な脳外科で診てもらった。優秀な先生に手術してもらえることになった。腫瘍はいつの間にか直径4㎝の塊になり、脳のあらゆる組織を圧迫していた。私たち親子は陰で先生のことを「ブラックジャック」と呼んでいる。

別に法外な治療費を請求されたわけではないし、もちろん医師免許も持っている。11時間に及んだ手術は、まさに神業だったそうだ。待合室のモニターで手術の様子を見ていた母は、今でも先生を崇拝している。私も心から感謝しているし命の恩人だ。麻酔から目覚めると、顔を含め身体の左側の感覚が全くなかった。

「あ、左足も左手も切断されたんだ」と思った。実際は切断なんかされていなくて、正しくは左側の感覚がなくなったのだった。何を触っても感じなかったし、立つことは愚か、真っすぐ座ろうとすると、身体が左側に傾いていく。

自分を良く理解し、磨くことが、この動乱を生き抜いていく鍵

手術後半年間、リハビリのため入院した。ちょうどそのときくらいから日本でもコロナが流行り始め、外出外泊、家族との面会さえも禁止された。社会から遮断されたような、私だけ取り残されたような悲壮感と、虚無感に襲われた。が、ずっと下を向いて生きていくのは私の性に合っていなかったようで、病院の先生たちと家族のように仲良くなった。

退院した今でもたまに食事に行ったりするほど仲良しで、私が精神的にここまで回復できたのも先生たち、家族のおかげだ。私一人、時間が止まったかと思っていたけど、退院して世界に目を向けてみると、どうやらどこもかしこも大変な状況になっていた。無数の情報を浴び、何を信じればいいのか分からないこのご時世、やはり信用できるのは自分の目で見て、直接触れるこのとのできるアナログで純粋なコミュニケーション。人との繋がりだ。少し舞台と共通する部分もあると思う。

人生山あり谷ありと言うけれど、本当にその通りだと思う。

私はこの動乱の世の中で、自身を磨き自分のことを良く理解するということが、生き抜いていく鍵だと思う。いつも強くなくてもいい。体当たりでもいい。どんな状況でも、私自身が「何この展開。おもろい」と思えるようユーモアと、走り出しが少し遅れた人に手を差し伸べられる優しい心を持った人になろう。