昔から結婚願望はあった。
というより、普通にするものなのだと思っていた。

ただ、私が“ふつう”ではなかったのは、
私が本家の長男の娘で、男兄弟がいなかったこと。
そして、両親や私たち姉妹の意思とは別のところで、家の存続が期待されていたこと。
小さい頃から、私にとって結婚は、漠然と「婿をとること」だった。

子どもも欲しかった。
子どもが好き、というのもあるし、姉や周囲の人が、“母親”という生き物になっていくのを見て、人生の中で、“母親”になった自分を経験したいという気持ち、もあった。

だが、20代も半ばに差し掛かると、結婚することが普通、ではないこと、結婚に関する自分にとっての普通が、世間の“ふつう”ではないこと、そして、世間の“ふつう”の強力さ、を思い知るようになった。

「結婚=しあわせ」という方程式は成立しないようだ

20代半ばともなると自ずと、「結婚」に関する話題が増える。
そんな場で、自分の結婚観を話すと、女性からも驚かれ、男性からは、「うわ、彼氏かわいそう…」、「それは揉めるわ…」なんて反応が悪気なく返ってきた。
外野の意見ではあるけれど、これだけ共働きが当たり前になって、女性の管理職を増やそうだの、なんだの言っているこのご時世に、同世代の感覚すらこうなのか…と、絶望した。

また、周囲で結婚する人が増えるにつれ、離婚していく人たちや、毎日旦那さんを呪うように生きている人たちを目にして、「結婚=しあわせ」という方程式は成立しないと思うようになった。

そんな中で、私の価値観は、

  • 一生一緒にいたいと思える人に出会えたら、もちろん嬉しい。
  • 子どもは、絶対に産みたい。

へと変わり、なんとなく適齢期だから結婚しないと、みたいな圧力や雰囲気には、アレルギーを持つようになった。

とはいえ、子どもを産むには、年齢的な制約もある。
適齢期までに、この人!と思える人に出会い、相手もそう思ってくれる、なんて奇跡が起きなかったら、どう子どもを産めるのか、自分なりに調べ、「30歳までに相手が決まっていなかったら、精子バンク使って子どもを産む」と公言するようになった。

結婚は彼と私の間で行うことだと、やっと解放されたはずだったのに

でも、私だって、出来ることなら、この人!と思う人と一緒に生きたいし、出来ることなら、その人との子どもを産みたい。

私の中で、相手探しを頑張ることと適齢期だからと結婚を急ぐことは別物で、せっせとアプリ、街コン、様々な活動に勤しんだ。

そして、出会った。(と思った。)
これまで、偉そうにも、自分から人を好きになったことはなかったし、彼氏さんに、結婚を考えている趣旨の話をされても、内心「ふーん。私はあんまり考えてないな…」なんて思ってしまっていた私が、初めて、自分からこの人と付き合いたい、一緒にいてみたい、と思った。
そして、その人も好きだと言ってくれた。

お互い妙齢だったので、将来に対する感覚のすりあわせは、付き合って数か月で行った。
お互い結婚を考えたいと思っていた。
私にも奇跡が起きた。
さらに、家の事情を話すと、彼は名字へのこだわりもないし、男兄弟もいる、婿に行くことに何の抵抗もない、と。こんな奇跡があっていいのか…。

世間の“ふつう”がなんだろうと、結婚は、彼と私の間で、彼の家と私の家とで行うこと。
彼と私がフラットに話し合えているんだから、何の問題もない、小さい頃から感じていたプレッシャーから解き放たれた気持ちだった。

しかし、時は流れて約2年後、いよいよ結婚しましょうか…となったとき、彼がやっぱりもう一度ちゃんと家のことを考えたい、と言った。

驚きはしたものの、大切なことだし、彼が考えるのを待ってみた。
結論は、嫁に来てほしい、だった。

彼も私も家を守りたい。結論を出す判断理由は「それがふつうだから」

私は、今その彼と一緒に生きていない。
理由は、私が嫁にいかないといけなかったから、ではない。
彼がはじめは婿に行くと言っていたのに覆したから、でもない。

結論が変わった理由は、付き合って数か月の頃は、私の主張にあわせていただけで、家について考えたこともなかった、それがいよいよとなって初めて両親と話して、意向を知ったから、だそうだ。
それも仕方ない。男として生まれたら、姓を変えずに生き続けるのは、考えすらしなくても当たり前に与えられる権利で、考える機会がなかったのは彼のせいじゃない。
ただ、彼が家を守りたい、私も家を守りたい、どちらを優先するか、となったときに、彼の判断理由は、「それが“ふつう”だから。」だった。
その言葉で、この人とは生きていけない、と思ってしまった。

私は、世間と結婚したいわけじゃない。
あなたと結婚したかった。あなたにだけは、“ふつう”を押し付けられたくなった。

女が嫁に行くの“ふつう”の存在理由がわからない

話合いの中で、何度も何度も、「私が嫁に行くことが当たり前の人だったら、こんな議論しなくてよかったのにごめんね。“ふつう”じゃなくてごめんね。」と謝った。

でも、私が家を守りたい、と思うのは、悪いことだろうか。
私が自分の姓にアイデンティティを感じていること、どちらの姓を名乗るか、状況を踏まえてフラットに話し合いたい、と望むのは、迷惑なことだろうか。
なぜ、同じことを、たまたま男に生まれると、考えもせずに出来るんだろうか。

家の事情、収入の事情など、どちらに籍を入れるかの合理的だと思う判断基準は色々ある。
でも、今の日本の社会において、男であること、に女性が結婚するとき「何さんになるの?」と当たり前に聞かれるほどの合理性はあるんだろうか。

これだけ男女平等が叫ばれても“女が嫁に行く”、の“ふつう”は変わらない。
その議論を見かけることすら、稀だ。
それが変わらない限り、産まれた瞬間に、性別が分かった瞬間に、落胆される命が発生し続けるのに。

私には、この“ふつう”の存在理由がわからない。

実は今、新たなパートナーとこれからの人生について考えている。
事実婚が良いのか、籍を入れるならどちらの姓にするのか、よく懲りないな、と自分でも思うけど、二人で相談しながら進んでいる。

形はどうあれ、おじいちゃんになった彼の横で変わらず、笑っていられますように。
そして、いつか子を授かる日が来たら、そしてもしそれが女の子だったら…。
その子が身体的に女であるが故にする悔しい経験が、少しでも少ない社会になりますように。