「で、親からなんて言われた?」
 友だちからの結婚報告に対し、おめでとうの次にわたしが発する言葉だった。というのもわたしには結婚に対してどうしても越えなければならない壁があったのだ。
 わたしの実家はお寺。姉とわたしの二人姉妹。そう、お世継ぎ問題だ。このご時世に…?と笑われる方も少なくないだろうが、田舎の小さなお寺の坊主である父親にはどんなご時世であろうと関係ないのだ。代々お寺を守っていく。先代も自分もそうしてきたのだから、当然娘たちもそうすべきだという一択なのである。

「お寺の人と結婚しんさいよ」初めてそう言われたのは中学生のとき

 最初は中学生の時。当時わたしは付き合っている男の子がいた。わたしはその彼のことが大好きだったし、まだまだ先だけれど結婚できたらいいな、と考えていた。夢見る中学生である。
 彼のことは父親の知るところでもあったのだが、ある日一言、
「お寺の人と結婚しんさいよ」
衝撃である。まず、「わたし彼と結婚するし!!!」夢見る中学生である。「え、てかわたしの結婚相手、父さんが決めるん?」脳内パニックである。そこから呪いをかけられたようだった。
 大学は地元から離れた関西へ。高校生の間に前出の彼とはお別れしたので、彼氏作るぞー!と意気揚々に大学デビュー!…は遂げられず、それなりの4年間を過ごし、そのまま関西で就職。

姉の結婚をめぐり大戦争、その後、父がわたしの結婚をめぐり一人で大暴れ

 その頃からであろうか、帰省するたびに「お寺にお嫁に行きんさいよ」、「うちの宗派の人と結婚しんさいよ」と呪いが強化されていった。
 輪をかけて酷くなっていったのは姉の結婚がきっかけである。
 父親の中では姉が婿養子をもらいお寺を継ぐはずだったのに、合コンで出会った、一回り以上も年齢が上のサラリーマンと結婚したい、だと…?
 お分かりであろう、父親激高、姉号泣、侃々諤々の大戦であったらしい。勘当という言葉ももはや頻出ワード。結局、挨拶に来てもらえるまでに1年以上もかかった。第一次結婚大戦は姉が将来お寺の面倒を見るという講和条約により収束。

 したかと思うと今度は次女のわたしだ。口酸っぱく言うだけでは足らず釣書をもらってきたこともあったし、仕事を辞めてお寺の学校へ行けと入学願書を送ってきたこともあった。
「お寺にお嫁に行かんのじゃったら死んでも死に切れん」
なんてメールしてきたときにはもう…。最強の呪い発出である。
 友だちはみんな「おめでとう、良かったね」と結婚を祝福してもらえるのに、どうしてわたしは違うんだ…。運命を憎み、父親に反抗心しかないわたしは大分ひねくれていたし顔も心もブスだったろう。第二次結婚大戦は父親が大暴れしていた。

父の願いはわたし達の幸せ。その証拠にほら、花嫁の手紙に泣いている。

 そんなわたしも結婚したいと思える相手ができた。応戦するしかない。わたしは考えに考え、悩みに悩み、泣きに泣いた。いや、呪いにかけられた中学生の頃からずっと思い悩んでいたのだ。
「なんで好きな人と結婚できないの?」
 でもこの応戦期間に父親や自分自身にじっくり向き合ったことでひとつの考えに至った。どの父親も娘の幸せを願っているのだ。表現の仕方が特殊ではあるけれど、そういうことなのだ。大戦は当初こそ激しかったが、無事彼に挨拶に来てもらえることになった。そこからはとんとんと話も進み、わたしは大好きな彼と結婚した。
 父親のことについて長い時間をかけて何度も何度も考えてきたが、二度の大戦の真意は、どこの馬の骨かも分からない相手に娘をやるわけにはいかぬ!という心配と愛情なのだった。その証拠に、結婚式の日の父親はとても嬉しそうな顔をして新郎と握手し、花嫁の手紙に泣いているではないか。なぁんだ、わたしは自分で勝手に呪いをかけていただけなのである。
 あの頃のわたしに言ってあげたい。わたし、今、こんなにも幸せだよ。