「大人になると汚れていく」という言葉をどこかで聞いたことがある。いつからだろう?私はその言葉に甘える大人になっていた気がする。

高校時代から心が不安定で、学校を休みがちの私は家に引きこもる日々を送っていた。つねに物足りなさと不安のようなものを抱えていて、そんな時はひたすら日記を書き綴ることによって自分自身を支えていた。当時は顔のニキビにも相当悩まされて、劣等感も人一倍強かった。今でこそマスク生活は当たり前となったが、当時から顔を隠すためにマスクを手放すことが出来なかった。

社会人になっても劣等感や心の寂しさで異性に執着していた

そして大人になり社会に出て働き出すと、様々な困難にぶち当たった。人間関係の苦悩、劣等感からくる「普通の人」への羨望と嫉妬。側から見れば無い物ねだりでしかなかったと思う。恋愛もうまくはいかなかった。心が寂しいあまりに軽率な駆け引きや試すような行動をして、いつも異性に執着していた。「なぜ満たしてくれないのだ」と怒り狂ったこともある。いわゆるメンヘラでしかなかった。

ふと「大人になると汚れていく」の言葉がよぎる。いつしか私は自分の満たされない気持ちを環境や人のせいにするようになっていたのだ。そんな自分の弱さを気づかせてくれたのは偶然書店で見つけた茨木のり子の詩集だった。手に取ってページを開くといきなりこんな言葉が飛び込んできた。

『ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな(中略)/自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ』

この容赦のない言葉に一瞬冷水でも浴びたような気持ちがした。でも不思議と高圧的に感じることはなく、それは驚くほど凛々しかった。かっこよくて、潔くて。それ以来、詩を読み、自ら詩のようなものを書くようになった。この言葉と出合い、そして詩を書くようになってから、私は変わった。まず自分を客観視するようになり、同時に「他人に求める」ことの無意味さを知った。他人に求めなくなると、必然的に自分と向き合う時間を手にして、自分を知るようになる。自分は何に興味があるのか、なにが譲れないのか。憧れる自己像を日記に書き留めるようにもなった。内容は難しいように見えて簡単でもあった。

何気なく褒めたら涙ぐみながら感謝をされた

例えばこう。ニキビが酷くても、歯が黄色くても躊躇なく笑顔をみせる。堂々と「ありがとう」と「好き」を伝える。出来ないことは素直に「できない」と言う。読書でわからない単語があればノートにまとめて勉強する。

そんなことを続けていたある日、行きつけの飲食店で思いがけず女性店員さんと会話をした。私より若いであろうその女の子がいつものように料理の説明をしたあと、私は何気なく「ありがとうございます。こんなに料理の種類が豊富なのに上手に説明ができるなんて、本当すごいです!」と感心すると、女の子はたちまち涙ぐみ始め、こう言った。

「ありがとうございます!いつもお客様がご来店するたびに素敵だなと思っていて…そんな方にそうおっしゃっていただけるなんて嬉しくて」
私は大いに仰天した。自分が素敵?社交辞令にしてはリアリティのある表情に私は素直に「こちらこそ!そういって頂けて嬉しいです!」と答えた。そのような体験がちらほら見受けられることに私自身驚いていた。

日常のそこかしこに尊さが潜んでいると知ることができる

「大人になると汚れていく」
その言葉をふと考えてみる。本当にそうかな?それって「自分は変われないんだ」って自分を納得させるための悲しい言葉じゃないかな?今は「大人は汚れない」と言い切れる。

言葉は不思議なものだ。とくに、詩は私にとって特別だ。理屈を超越した詩と出合うと、私たちの日常のそこかしこに尊さが潜んでいると思い知ることができるから。

 きっと大丈夫。私たちはまだ「終わり」ではなく「途中」だから。