「公園の近くに靴が片方落ちていました」
「くまちゃんのぼうし、どなたか忘れています」

この街に住んでいると、必ず見かけるちいさなおとしもの。大人だとこぶししか入らないような小さなくつや、つぶらな瞳がキュートなくまのぼうし。お気に入りなのか、少し汚れてしまっているカラフルなボール。

顔も名前も知らない誰かを想像するだけで、心がじんわりとほぐれる

ファミリー層が多いこの街には、いたるところで子どもたちの落としものを見かける。子どもがいない自分にとって、彼らの落としものは心をほっこりさせるようなものばかり。

そして、この街の落としものは、単に道端に落ちているのではないのもほっこりポイントのひとつ。ある時は、くつがビニール袋に入れられてベンチの上にちょこんと置いてあった。またある時は、メッセージカードつきでくまのぼうしがポールにかぶせてあったことも。

知らないだれかの落としものをわざわざ袋にいれたり、メッセージカードを書いたりしていた人のことを思うと、その親切心にときめきが止まらない。

落としものを見つけて拾った人は、きっと心の中で「くつが片足ないと困るだろうし、汚れてしまうとかわいそうだ」「こんなにかわいいぼうし、見つけられないとショックだろうな」と思っていたに違いない。そんな顔も名前も知らない誰かのことを想像するだけで、心がじんわりとほぐれていく。

いいなあ、そういう思いやり、素敵だなあ。そう思うと同時に、最初はこの街があまり好きではなかったなあと苦々しい記憶が思い返される。

ステイホームを余儀なくされて、狭い視野が一気に広がった

この街に住み始めたころ、私は常に文句を言っていた。家から駅まで歩いて20分もかかるし、おしゃれなカフェや流行りのパン屋さんもない。商店街もシャッターがしまっている店や、「本当に開店しているの?」と疑いたくなるような店ばかり。唯一、都心へのアクセスに優れていることだけが、この街に住み続ける理由だと言っても過言ではなかった。

そんな私の狭い視野が一気に広がったのは、昨年の4月。緊急事態宣言が発令されて、ステイホームを余儀なくされたときだ。

この街に住む「唯一の」理由である「都心へのアクセスの良さ」が一気に意味のないものに成り下がった瞬間。かといって、コロナ禍の中で引っ越しを工面する勇気もお金も持ち合わせていなかった。

散歩をして、どんなにちいさなことでも愛おしさを感じるようになった

緊急事態宣言の期間中、どこにも行けなくて心が閉塞してしまうのをなんとか防ぐために、街中を散歩した。そして、散歩を続けていくにつれて、今まで駅と家の往復だけでこの街を知りつくした気でいた自分を反省したいと思うようになったのだった。

おしゃれなカフェがなくても、公園や沿道の木花はいつだってうつくしい。

流行りのパン屋がなくても、にぎやかで元気そうな子どもたちの声がきこえる。

人間と一緒に楽しそうに散歩している犬や自由気ままな野良ネコにだって会える。
春にはうぐいすだって鳴く。

今まで素通りしていた街に色がつき始めたように、どんなにちいさなことでも愛おしさを感じるようになった。そんな折に見つけたのが、冒頭のちいさなおとしものたち。

ちいさくてかわいらしいおとしものと、それを拾う心やさしいだれか。人の心のやわらかい部分を身近に感じられるこの街が大好きだ。

いつか私もちいさなおとしものを拾ったときは、とびっきりの思いやりをもって、おとした人に届けたい。それを見ただれかもまた、この街を好きになってくれるかもしれないから。