私たちは日常のなかで多くのコンプレックスと向き合い、その昇華方法を模索しつづけていると思う。

たとえば私は「多汗症」だけれど、人の目が気になりはじめたのは高校生の頃だった。それ以前から症状はあったものの、私自身が意識するまではこれをコンプレックスだと感じることはなかった。
自覚してからは汗止めクリームなどを使ったり、ネットで対処方法を調べたりした。月日が経つうちに多汗症の自分にも慣れていって、嫌だな~と思いつつもしょうがないって気持ちも出てきた。
もちろん不躾な視線を向けられたとき、弱点をつつくような指摘を受けたとき、心が痛くなるのは変わらない。そんな日は自分を労わって甘いものを食べたり、ゆっくりお風呂に入っているうちに平気に戻る。

スナックのママが口にした私のコンプレックスへの「かわいいわね」

まだ成人したばかりの頃。深夜、軒並みシャッターの閉まる寂れた商店街へたびたび足を運んだ。お目当ては古い佇まいの小さなスナック。年齢不詳のママとバイトの女の子が1人いるだけのこじんまりとしたお店だ。
当時の私は無職だったが、わけあって自由な時間は少なく、手持ちのお金も微々たるものだった。懐の深いママ、良心的な価格、唯一気を休める場所がこのスナックだった。

その日はカウンターでビール2杯飲んでほろ酔い気分、お客さんも自分だけ。洗い物を終えたママが手にハンドクリームを塗っていて、私はそれをぼうっと眺める。
するとママが「使う?」とハンドクリームをちらつかせて見せた。私は酔って弱音を吐きたい気分だったのかもしれない。多汗症なこと、ハンドクリームを塗ると症状が酷くなることをムダに丁寧に説明した。
ママは「かわいいわね」と言った。
重ねるように「汗は女のフェロモンたっぷりよ~。じゃぶじゃぶ出しちゃいなさい」と言ってくれた。

人によっては慰めに聞こえるかもしれないが、私はコンプレックスを撫でられたような安心感を抱いた。くしゃりと笑うママの顔が、「大丈夫だよ」と言ってくれている気がした。
確かに自分1人でもコンプレックスはある程度平気になっていく。けれどあの瞬間、私はママにもらった「かわいい」のおかげで本当の意味で平気になれたのだと思う。

愛おしさをこめて放つ「かわいい」は愛してるよ、大好きだよってこと

数年後、私は自然とそのお店に通わなくなっていた。特に理由はなくて、そう、特別な理由がなくても自然と会わなくなる人はいる。お店の前を通るたびにママの顔を思い浮かべ、いつか行こうの「いつか」はなかなか訪れない。
出会いと別れを繰り返して、誰かと過ごした日々が私に色とりどりの染みを垂らしていく。
ママからもらった「かわいい」は年々過去になっていくけれど、私にとっては今も御守りのように大切な言葉だ。出会いと別れの記憶をアップデートし続けている今も色褪せることはない。
あれから私は、頻繁に「かわいい」と口にするようになった。近しい友人たちには「なんでもかわいいって言うよね」なんて言われてしまうのだが、私はかわいいの魔法を信じている。

愛おしさを込めて放つ「かわいい」は、=愛してるよ、大好きだよってことなのだと思う。
特に、弱味を見せてくれたときはここぞとばかりに使いたい。大丈夫、そんなあなたが大好きだよって気持ちを込めて「かわいい」と伝えたい。
傍にいてくれる人が明日も一緒とは限らないから。もしお別れすることがあっても、あなたの糧になるような言葉をひとつでも贈れたらと願う。