この言葉に出会わなければ今年1月に行われた成人式に姿はなかっただろう。
これは出欠の話ではなく、生死の次元の話である。言葉にそんな力があるのかと、未だこの体験をしたことのない人にはおかしな話に思えるだろうが、どうしようもないと心で感じてしまったとき、響くものであった。
いじめが原因だった。私の存在意義に対する問い
この「どうしようもない」状態、私の場合は自分が嫌いで仕方がなかった小学校4年生以降中学生卒業までである。本当に嫌いだった。
何が嫌いか。見た目部門では、えくぼ、一重の目、太い指、やせ型ではない、レディースサイズでは入らない靴の大きさ、汗をかくことなど。精神面では他の子にはできて自分にできないことを見つけひどく落胆する自分、できないことの克服を怠慢してしまう自分、さばさばした性格から攻撃的になる自分、嫌なことしか目につかない自分、私を分かってくれる人が当然にいると思う自分など。いわゆるマイナス思考が特技であった。えくぼができるのが嫌いで笑顔か減った。笑わないから友達作りに難航した。給食の時間がつらかった。学校がつらかった。この負の連鎖を分かっていても変えようとしない自分に腹が立った。
こんな性格になったきっかけはみんなが小学校中学年になって意識し始める恋愛だった。
さばさばした私の性格は男の子と遊ぶ方が楽しかった。しかし恋愛を意識した女の子にとって私は邪魔者でしかなかった。彼女たちがとった行動は私を女子の輪から外す「無視」だった。私という存在に興味を示さなくなった。これが大ダメージを与えた。班という少人数単位で授業を進行するとき話を聞いてもらえなかった。究極「私が(この世に)いない方が社会は幸せだ」と考えるようになった。
熱い言葉、それが生きることに向き合えるきっかけをくれた
そんなとき世間ではあるアニメーション映画で沸いていた。『新劇場版エヴァンゲリオンQ』である。金曜ロードショーなどで見たことはあったものの、グロテスクな印象が強く好ましく思っていなかった。しかし有名な作品だからと家族に連れられ、この新作を劇場でみた。
ここで運命の言葉と出会う。そのセリフが放たれたシーンは、夜に星を見ると言って主人公と重要人物の2人が外であおむけになっているときに、重要人物が主人公に向けていったひとことである。
この作品の主人公は全体を通して意気地なしで卑屈で子供っぽい。主人公らしい動きをとるクライマックスもあるが、基本見ていてイライラする。きっと私自身と重ねてみているから頭にくるのだろう。そんな主人公(私)に向けられた言葉。それが「僕は君に会うために生まれてきたんだね」。という直球な告白。
自分を自分でいらない存在だと思っていた時に、死にたいとすら考えていた時に、その人物は「僕は君に会うために生まれた」と、好意と生まれた理由を述べた。場面には2人しかいない、私(主人公)だけに渡されたことば。主人公本人がどう思っていようとも、あなたがいなければ僕もいないと逆に言い換えることもできる寛容で優しいことば。これだけ熱量のある言葉を知ってしまった。
アニメーション作品に出てくる人物はキャラクターと呼ばれ、現実には生きていない。理想的な世界の中で知った言葉だが、私が生きていることを受容してくれた偉大なる言葉に救済された。ひとめぼれのような衝撃が走った。
自分嫌いを辞める、つまり自分を好きになることは一人では不可能だった。誰かに認めてもらった経験が好きを加速させるのだ。作品と出会って8年間、ずっとこのことばを胸に、生きることを正面から向き合うことができ、20歳になった。おかげさまで恋のハードルの上昇が止まらない。今度は私が言う側に立ってみようか。