「俺が仕事を終えて家に帰ったら、君が用意した美味しいご飯が湯気を立てていて、君と子供たちがおかえりって迎えてくれる。そんな普通の家庭、それ以上に幸せなことなんてないよ」

あなたはきらきらの笑顔で言った。私はこのとき上手く笑えていたのだろうか。
普通ってなんだろう。
この言葉を素直に喜べるのが、普通の女の子なのだろうか。将来の夢がお嫁さんだと言える女の子が、普通の女の子なのだろうか。
私が普通の女の子ならよかった、その思いが胸をざらりと撫でた。

私の夢を知っていて、そんな私を、選んでくれたんじゃなかったの? 

私の夢は、船乗りになることだった。世界の海を渡って、世界中の港を知って、毎日違う海の表情を見つめていたい。
そのために辛い学生生活だって耐えられた。きっと普通の女の子が選ばない学校、選ばない生き方、選びとると決めたのは自分だ。どんなに苦しくても走り抜けた。
船に乗り続ける以上妊娠ができないから、子供を産むという選択肢はない。港を渡り歩くように全国転勤だし、なんなら出港でほとんど家にいない。
ねぇ、頑張り屋さんなところが好きって言ってたじゃん。オフの日はちゃんと女の子なところが可愛いって言ってたじゃん。私の夢、付き合う前から知ってたじゃん。そんな私を、選んでくれたんじゃなかったの?

船乗りのたまごとして航海に出ようとする私を、あなたは引き止めた。時には泣いて、時には力づくで。暴力を振られ、私の今までを蔑ろにするような言葉を投げつけられた。あなたは必死にあなたの夢を叶えようとしていた。あなたの語る普通の家庭のしたで、私の夢はぺしゃんこだった。大切な人に大切にされないことは辛かった。

努力で叶わないことはないと思っていたけど、こればかりは叶わない

あなたの夢と私の夢は両立しない。今後絶対に私たちはうまくいくわけない。
「でも好きなの」
訓練のあいま、緊張が解けるといつもあなたを思い出してぼろぼろと涙を流していた。癖毛の感触も、笑ったときの鼻のシワも、愛しくて愛しくて仕方なかった。
努力すれば叶わないことなんてないと思っていたけど、こればかりは叶わない。夢を捨ててあなたを選べば、きっと私の人生はからっぽになってしまう。
私とあなたは絶対に一緒に幸せになれない。
「でも好きなの」
うわごとのように繰り返していた。
わかっていても、大好きだった。離れたくなかった。

どちらも選べないのならばどうしたらいいのか、分からなくて毎日泣いた。
それでも唯一、確かなことがある。
私の人生は、私にしか生きられない。

ペアリングとあなたからの手紙は、日没の海に沈めた。

洋上で、私はあなたを忘れる決心をした。
ペアリングとあなたからの手紙は、日没の海に沈めた。
私だけの人生を、私自身が生きるために。
次に入港した港で、あなたに電話をかけよう。

一緒に過ごした2年間は、きっとすぐには忘れられない。忘れようとしなくていい。けれどあなたを思って心をかきむしるように記憶に刻むのはもうやめる。
私は私のことをいちばん大切にしてあげたい。

そしていつか。
私の人生を大切にしてくれる人がもし現れたら、その人に私の心をあげるのだ。どちらの夢もつぶさない人生を、ふたりで歩んでゆくために。