東京に出てきて、初めての面接。手応えはなかった

好奇心の強さと勤勉な性格の甲斐あって私の受験生時代の偏差値は70を越えていて、おかげで女の子にも関わらず東京の大学へ進学することにも反対されずにすんだ。
そして私がたどり着いたコミュニティは、激しい競争社会だった。

大学に入学して右も左も分からないなりに、入りたいサークルを見つけた。しかし、そのサークルに入るためには選抜に受からなければならなかった。
書類提出と、面接があり、志望動機や入ってからやりたいことなどを聞かれた。
私にとっては人生で初めての面接だったこともあり、独自性もまとまりもない回答ばかりしてしまい、帰り道は「ああ、落ちたなー」と思いながらぶらぶらと帰った。
地元では優秀でも、憧れの東京では通用しないのだ。面接は不合格になるだろうけど、これから東京でも通用するくらい成長するぞと胸に誓った。

実は顔選抜だった、自信を失った

しばらくしたらそのサークルからメールが来て、私は合格したとのことだった。自分の何が評価されたのか分からなかった。でもやっぱり嬉しくて、未来を考えるとウキウキした。

一週間後くらいに、初めてサークルのメンバーとして先輩と会った。
私は新入生歓迎会に参加できなかったので、先輩同士のミーティングに参加させてもらうみたいな形だった。
だからだろう、先輩たちはサークルについて本音で話していた。
例えば「あのサークル代表は優秀じゃないくせに…」とか、「今年は女子大の子も入れるなんて多様性があっていいね」とか。

その言葉たちから、私は有能、無能を評価づけるようなまなざしを感じ取った。
それを私が感じ取ることができたのは、自分のうちにも同じようなまなざしが多少なりともあったからだ。このサークルで認められたいと思うからこそ、知らず知らずのうちに私も人間の優劣を評価するまなざしを強化していった。

数カ月後、私はサークルの選抜に関してある噂を聞いた。
それは、選抜時に女子を顔で評価したというものだった。
それを聞いて、私は「ああ、私は顔で評価されたんだろうな」と悟った。
面接であんなにダラダラと中身のない話をしたのに受かるなんておかしいと思っていた。
もし私に顔が無かったら、無能な私は多分このサークルにはお呼びでなかったのだろう。思えば最近褒められるといえば容姿のことばかりだった。

私に求められていることは、何も言わずニコニコしていることだったのだろうか。自分の言動や振る舞い全てに対して自信を持てなくなった。私はみんなより非論理的で非合理的な無能、だけど容姿がいいからここに居させてもらえてるの?

ある日、パソコン作業をしていた。やり方はわかるのになぜか上手くいかなくて、隣にいた男の子にやってもらったら、同じ作業をしたのにすんなりとできた。パソコンにすら、お前はダメだと言われたような気がした。

環境を変え、容姿を褒められることがなくなって

初冬あたり、家の最寄り駅では人身事故が相次いでいた。
駅のホームで特急や急行が通り過ぎるのを見ていたら、なんとなく自分が飛び込んでしまう気がして、別の何かに意識を集中させたくてスマホを見ていた。すると、サークルの優秀な同級生がSNSに投稿していた。

「僕は、何者かになりたくて、他人と比べて自分を卑下したりして苦しかった」

私はびっくりした。こんなに優秀な人でも、他人と比べて自分を卑下することがあるのだと。
同時に、無駄じゃん、と思った。
他人より無能だと思って落ち込んだり、自分の方が有能だと思って他人を馬鹿にしたりしたって、誰も幸せになってないじゃん。

降りよう、と思った。この競争地獄から。

すぐにサークルを辞めて、自分を見つめ直して、ずっとやりたかったボランティアを始めた。そこでは有能とか無能とかは問題じゃなくて、社会課題に対してどう取り組むかが問われた。
私の問題関心に沿った活動だったから、すごく打ち込んだ。すると、いろんな人からそのボランティアやそれに関連する社会課題について意見を求められる機会が増えたりした。
人と議論するときに耳を傾けてもらえると感じられることが増えた。

今では容姿を褒められることはほとんどない。それが、私にとっての成長の証なのかなと感じる。