色々な方の「結婚、どう思う?」のエッセイを読み、また私自身もそれを書き、心が飛んだり跳ねたり忙しく変化した。
そして、その心の動きを分析した結果、やはり私にとっては「妊娠出産」がどうしてもネックになっているらしい。

元々頭で考えることでなかったのだから、私たちは悩む

生き物が、生き物を産む。
自然界や動物にとって、ものすごく当たり前のこと。
その時期や、何人産むか、痛みを無くす等、コントロールしようとしているのは人間くらいだろう。
コンドームやピルなどなければ、男女の身体が交じり合うだけで、自然に子どもが産まれてしまっているはずだった。
人間は、生殖とは別に「ただ純粋に身体が交じり合う行為」が独立することを可能にしたわけだ。

独立してしまったから、妊娠するorしないのか、選ぶ責任と自由が生まれる。
自然の成り行きで得ていたはずの子どもが、頭で生きる人類にとっては計画的に実行する(または実行しない)べきものになってしまったのだ。

元々頭で考えることでなかったのだから、私たちは悩む。だって、子どもが欲しいか欲しくないかに関わらず、女に生理は毎月来るのだから。
私たちの意思なんて関係なく、毎月、規則正しく、子どもが産まれる準備を身体は律儀に行なっている。
育てるお金がなかろうが、結婚していなかろうが、子どもが嫌いであろうが、未来が先行き不透明であろうが、女の身体はいつだって子どもを産む気満々だ。

なぜ、産むことを決断できたの?

同世代や十代の方が出産、子育てを経験しているのを意識する度に、私はとてつもなくモヤモヤしていた。
それは、「妊娠出産は頭で計画的に、慎重に考えるものだ」と、私が思っていたから。
だから、それをどんどん経験している彼女たちに一々インタビューしたい気分だった。

なぜ、避妊しなかったの?産むことを決断できたの?なぜ命を新しく創るという、とてつもない事を何回も決断できたの?怖くはないの?なぜ大丈夫だと思えたの?なぜ、なぜ、なぜ…と。

でもその答えは、女である私がいちばん知っているはずだった。だって、私は愛する彼氏と、いつもあんなに繋がりたいと、身体を交じり合わせたいと切実に思っている。
それはもう、食べたい寝たいという欲求と同じくらい、自然に、反射的に。
本来、その自然な欲求で授かるのが子どもなのだ。
子どもを産みたい、という思いを言葉で説明し切れる訳がない。
なぜ呼吸したいの?と聞いているのと同じだから。

性的なことでなくても、人が人と繋がりたいと思うことは、多分自然な欲求だ。
家族、友人、信頼している人、名前も顔も知らないSNS上だけですれ違う人…
会話したり、共に楽しい時間を過ごしたり、色々な形で人々は繋がり合う。
この「繋がりを求める欲求」が、究極に煮詰まったものが「性欲」や、「新しい命を創り出したいという欲求」なのだろう。その欲求の深さが、人によって様々あるだけだ。
きっと、人と会話するだけでその欲求が満たされる時期や、元々そういう性質である人、同性とのみ(または両性に、または異性に)深い欲求が湧き上がる人、多様な人がいるのが普通。

考えると、楽しみで、幸せすぎて、涙が出てくる

ところで、私は先日書いた「結婚、どう思う?」のエッセイを彼氏に読んでもらった。
私たちは、よく結婚や出産について話し合っているのだが、それについて私が感じていることを今回ありのままに描写できたと思えたので、感想を聞きたかったのだ。ドキドキしながら、LINEの返信を待った。

返信にはこのようなことが書いてあった。
「一言ではうまく言えないけど、不安多めの期待を感じた。でも、2人のこの先のために悩んでくれているのが嬉しい」と。

こんなの、私の方が嬉しかった。私が、彼とこれからも繋がりたいと思うのと同じくらい、彼も私と繋がり続けたいと思ってくれているのを感じたから。
もっと、彼と深く深く、繋がっていきたい。彼との子どもを授かってみたい。痛みや恐怖はそっちのけで、そう自然に思っている自分がいた。
私たちの子は、どんな子だろうか?2人に似ているのかな?私たちと仲良くしてくれるかな?何が好きなんだろう?どんな生き方をするのかな?会ってみたいなぁ。
考えると、楽しみで、幸せすぎて、涙が出てくる。

その一方で、反出生主義というものについても、考えてしまう。人を産むことは、その生まれた命が不幸になる可能性を、わざわざ作り出しているということ。そこに、親は責任を負わない。確かに生まれなければ、死ぬことも苦痛を感じることもない。重い障害を持ったり、ケガをしてしまうことも。

でも、私が今まで感じた苦しかったことは、すべて私の両親のせいなのだろうか?
それは少し違う気がする。
「生まれてよかった」と思う瞬間が、私には確かにある。私は、両親の思惑を超えて、私の人生を生きている。
この、「やはり生きることは、どこか面白い」という感覚がないと、人を産むことは難しそうだ。人間を存在させるということを、頭で計画する必要性も、この辺りにある気がする。

私は今ここに、宣言したい。
「不安」「怖い」をたくさん感じながらも、彼と繋がり続けたいこと。その結果として、いつか子どもを授かり、彼らといっしょに楽しく生きてみたいということ。これらの望みをまっすぐ持つ私を、受け止めていきたい。
そうすることを、私自身に許します。たとえ、未来がどうなるか分からなくても。

もし、幼い頃の私に「どうして痛いし大変そうなのに、子どもを産んでみたいの?」と、聞かれたら今の私はきっとこう答える。
「怖いけど、その方が楽しそうだからだよ!」と。