今の私に、人権は、ない。
今2020年の8月に子どもを生んだ。
なんて理不尽で、なんて生きにくくて。でも、たまらなく幸せな生活
食事。立ったまま片手で噛まずに食べる。食事というよりガソリン補給。
排泄。トイレの扉は開けっ放し、かつなるべく短時間で。
入浴。洗うというよりは流す。湯船に浸かるときは9キロの肉体の重量上げと共に。
睡眠。眠るというよりは、黙とう。レムだのノンレムだの…はぁ?
なんて理不尽。なんて生きにくい生活。いつまで続くのか見当もつかない。
こんな生活を送りたいと願ったことは今まで一度もないし、今後もない。
今の私に、人権は、ない。
言っておくが、私は極めて計画的にかつ希望通りに妊娠をし出産をした。
周囲の協力もあり、産後の体調もよい。精神も比較的安定している(つもり)。
ありがたい事に夫ともうまくいっている(つもり)。
今も隣で寝ているわが子はかわいくて仕方がない。触りたい、嗅ぎたい、舐めたい。
つまり、私は今、たまらなく幸せである。
この+αによって、その時間の主役は私(とわが子)になる
子どもを生んでから、いろんな人たちが我が家に来た。
かわいいプレゼントもくれた。ベビー服におもちゃや絵本。その上私といっしょに食べる美味しいごはんやおやつまで持ってきてくれる。恋愛、家族、仕事、あの人のこと。報告という名の自慢話や、悩み相談という名の承認欲求の満たし合い。「別にいいんだけどさ」から始まるあの人の悪口。出産前と変わらないやりとり。全部楽しい、全部おもしろい。
そして待ってました、+α。「おめでとう!」「かわいい!」「体調どう?」「幸せやね」「お名前の由来は?」。そんな言葉や、床に座ってわが子の相手をする行為。
この+αによって、その時間の主役は私(とわが子)になる。
2、3時間お茶しようなんていうつもりが気づいたら6、7時間経ってるなんて今さら驚きもせず、わが子を抱いて、駅まで見送らずごめんね~次会う時はハイハイしてるかもね~なんて言いながら玄関でばいばい。
リビングに残る空のグラスや、来客の時にしか出さないお菓子を入れるかごの中に残ったスナックのくずを見て、ふっと我に返るのは、出産前とかわりなくある感覚だ。
我に返りながら、私は来客者に3パターンあることに気づいた。
パターン①。前述の+αが十分にある人。
パターン②。前述の+αがない、あるいは少ない人。
パターン③。前述の+αの言動に不快感を覚える人。
不快感はなぜ生まれるのか。私にはない人権が、この人にはあるからだ
パターン①へ。たいへんよくできました。はなまるをあげます。
パターン②へ。なにしにきたの?赤ちゃん慣れしてないの?もしかすると、わが子というよりは私という人間に会いに来るのがメインだったのかも。許します。
パターン③へ。不快です。どんな人か具体的には以下の通りです。
私はわが子を抱いているときは、迷いなく足を駆使する。バウンサーの位置をかえるとき、床にあるリモコンを押すときなど。それに対し「いやいや…足って(笑)」という人。
(私は元来お箸の持ち方なんかもきれいだし、人にものを渡すときは基本的に両手だし、けっこう作法はきれい(お母さんありがとう)です。)
出産時このご時世に関わらず夫に立ち会ってもらえた(産院よ夫よありがとう)。その話をすると「えっ!?なんで!?私ぜっっったい立ち合いしてほしくないねん」と言う人。(夫にはなるべく美しくかわいい私を見せたいし、指を折る勢いで手を握ったり、嘔吐する姿なんて見せたことも見せたいと思ったこともありません。)
こんな感じの人たちがパターン③です。
今までふつうにしていたことが、ふつうにできなくなった今。
今までふつうにしてこなかったことが、ふつうにできる今。
パターン③へ感じる不快感はなぜ生まれるのか考えてみた。
私にはない人権が、この人にはあるのだ。
私にも今まではふつうにあった人権が、この人には今もふつうにあるのだ。
今の私に、人権は、ない。
でも、なぜだろう。その人権、うらやましく、ない。
人権のない私、今すっごく幸せです。