彼のことは、もうあまり覚えていない。
大好きだったはずの匂い、低くて優しかった声、私よりもだいぶ大きかったはずの、手と手を繋いだ時の感触。大学時代の多感な四年間を共に過ごした人なのに、私はなんて薄情な人間なんだと思う。

子供の頃、まだ実家が団地で、私が小学生の頃。母から、母自身の過去の恋愛の話を聞いた事がある。
母は父と出会う前、四、五年に渡ってくっ付いたり、離れたりする恋人がいたらしい。母は、「次こそはこうしよう」「今度こそはああしよう」と、復縁の度に心に決めたけれど、結局同じ過ちを繰り返し、その恋は成就しなかったらしい。
「一度別れてしまったということは、何かが違ってたということ。お母さんも、その人とは最後は情やったんかもしれへん。あんたも、誰かとそういうことになって、復縁を考える時は、自分もやけど、相手を傷つけへんように、よう考えなあかんで。」
恋なんてまだ少女漫画の世界の話だったが、ふーん、そういうもんなんか、と妙に母のその言葉が私の中に残っていた。

別れ話をした日以降、私はそれまで以上に働いた

就職し、親元を離れて配属された地方での、初めての一人暮らし。仕事は想像以上に激務で、十時間以上休憩を取れずに働く日もざらにあった。そんな日は決まって、朝まで飲み明かすか、ご飯も食べずに玄関で寝るかのどちらかだった。
学生の頃のようにSNSを頻繁に更新しなくなった。彼にLINEする時間があれば、少しでも寝たかった。
居場所を作ろうと必死だったのだと思う。どんどん自分に余裕がなくなっていくのが分かった。気づけば私は彼との電話で呟いていた。
「別れたい」

彼からの返事は「別れたくない、距離を置いて、考える時間を作ろう」だった。
その日以降、私はそれまで以上に働いた。激務を体が受け入れてきて、ストレスの受け流し方を身につけた。辛い事の方が多いけれど、仕事が少しだけ分かってきた。そんな時だ、久しぶりに彼からのLINEを受け取ったのは。

連絡をしなかった分の近況報告で、その夜の彼とのやり取りは盛り上がった。
楽しかった話、悔しかった話、嬉しかった話、悲しかった話…
距離を取った時間にお互いに起こったことを共有する度に、またあの頃の楽しかった時のように戻れるのではないかと私は思った。
彼からは、「もう一度、直接会って話さないか」とメッセージがきた。

そして、なんとか彼に休みを合わせてもらって、私は彼に会いに行った。
新幹線の距離が短く感じるほど、行きの道中は彼のことを思い出して、これから復縁するであろう彼に何と伝えようかと考えていた。

埋められなかった、会わなかった時間と心の溝

だが、久しぶりに会った彼を一目見た時の、なんとも言えない違和感とぎこちなさ。最後まで、会わなかった時間と、心の溝を埋めることはできなかった。
久しぶりに会ったのだから、こんなに長い間会わなかったことはないのだから、少しくらいぎこちなくてもしょうがない。ふらふら入った喫茶店で、二人でLINEの続きの近況報告をし、他愛もない話を交わし、なんとか、何かを繋ぎ止めようとしたけれど、いつも彼から差し出してくれていた左手は、遂に最後まで私の右手を取ることはなかった。

彼は新幹線の駅まで私を送って行くと言ったけど、もう遅いから、大人だしちゃんと帰れるよと、私はその申し出を断った。
彼の家の最寄駅で別れる時、彼が「またね」と言ったから、私はたまらず彼に抱きついた。そしてその行動が、私の中の違和感を私自身で決定付けてしまったのだった。

帰りの新幹線は、行きとは比べ物にならないくらい時間が長く感じられた。
私は、いつかの母の言葉を思い出しながら、彼へのLINEを打った。
「復縁を考えるときは、相手を傷付けないように…」

そうして、彼との四年間は終わってしまった。

彼のことは、もうあまり覚えていない。
大好きだったはずの匂い、低くて優しかった声、私よりもだいぶ大きかったはずの、手と手を繋いだ時の感触。

でも、彼とのことは今でもよく覚えている。
一緒に見た花火大会の空、大学のカフェテリアでオムライスを食べたこと、私のバイト先に遊びに来てくれたこと、一緒に行った映画館が暑かったこと、初めてドライブデートをしたこと…彼と過ごした時間は、かけがえのない私の青春だった。
あの時、違和感を感じながらも、情と思い出にすがって、もし彼との関係を続けていたら、今のこの思いはなかったかもしれない。
大切な思い出すら消えてしまうほど、もっと彼のことを傷付けてしまっていたかもしれない。

私には、今となってはよく思い出せないことがたくさんある。まるで、頭の中にそこだけ薄い膜が張っているかのように、よく見えないし、触れないものが。
それでも、そのよく思い出せないことがとても大切で、私にとって大事なものだということは分かる。だから、何重にも包んで、触って形が変わらないように、頭の奥底に大切にしまっているのだ。
きっと、出会いと別れを繰り返して私の人生が続く限り、それは増えていくのだと思う。いつか天寿を全うする時、大切なものにたくさん出会えた、と心から思えるように、これからも私は生きていきたいと思う。