祖父が大好きで、祖父みたいな人を追いかけたいと夢みていた。祖父が生きていたら、私に何て声を掛けてくれるだろう。あの日の優しさを知り、感謝を伝えられなかったことを謝りたいのに祖父はもう居ない。私にとって祖父との思い出は心の財産であり今を生きる原動力だ。何にも代えられない、大きな愛情。いつも優しくて、暖かくて、大きな手で包み込んでくれた。

震災から1ヶ月後、私の帰りを待たず祖父は闘病の末に旅立った

祖父は10年前に亡くなった。東日本大震災から1ヶ月、2週間の闘病の末の旅立ちだった。私が大学で地元を離れていたとき、私の帰りを待たずに旅立っていってしまった。
地元は東北の沿岸部。被害も甚大だった。幸いにして家族の住む地域は奇跡的に、ほとんど建物被害もなかった。ライフラインが数日止まってしまったと、電話では聞いていただけに心配と不安で押しつぶされそうだった。私は何の苦労もしないで生活が出来ている。それが後ろめたかった。その気持ちを汲み取ってくれたかのように、祖父から手紙が届いた。まだ震災から2週間経っていない頃のことだった。
手紙には地元新聞と一筆書きが入っていた。今となっては何て書かれていたか覚えていない。でも、祖父の筆跡をみて安堵したことだけは今も覚えている。新聞には被害の全容が掲載されていた。当時の私には受け入れ難いもので、恐怖と不安から身震いし、すぐに閉じた。そして、せっかく届けてくれた新聞を、後日割れた食器を包むために使ってしまった。それを伝えられないまま祖父は旅立ってしまった。

大好きな祖父が亡くなって生きる意味を失い、限界寸前に

私は祖父が大好きで、ずっと祖父に救われてきた。絵を描く楽しさを。歌うことの楽しさを。旅することの面白さを。野球のカッコよさを。祖父の影響で知った世界も、たくさんある。祖父に救われて、元気づけられてきた。祖父を失った悲しみは癒えることはないと思うようになった。祖父の大好きだった私が消えてしまう感覚が生まれてしまうことに驚いていった。使ってしまった新聞の重みに押しつぶされていった。祖父の葬儀が終わり、大学に戻ってきたとき私のなかの何かが壊れてしまった。生きたい気持ちが薄れていった感覚を今も覚えている。

祖父を失って、私は生きている意味を見失った。ストレスから身体が動かなくなった。やる気も出なくて大学も休みがちになった。夜も寝れなくなって昼夜逆転生活も経験した。真っ暗な夜に、無性に悲しくて寂しくて一人で泣いていた。もう二度と家族を失いたくない、と人知れずに不安を抱えていた。昼間は、太陽の光によって妙な暖かさと安心を覚えて眠っていた。震災の影響で物資のためと、買いだめしちゃいけないとの情報も溢れた。だったら、私は食べなくて良い。それでも空腹を感じるたび、祖父の好きな味を求めた。祖父に食べさせてあげたかった。祖父に、祖父にと、祖父のためにと二十歳の私は街中を彷徨い歩いた。「がんばれニッポン」のキャッチコピーで溢れていた。その言葉を見るたびに、がんばれない私は生きている意味なんてない。そう思うようになっていった。大好きな祖父の居ない世界を生きていたって意味がない。そんな心情にも走り、ほんとに限界寸前だった。

あの日の届け物に、祖父はどれだけの想いと言葉を掛けたかっただろう

再び生きたい気持ちが戻り始めたのは、それから2年経ってからだった。祖父も応援してくれていた、大学進学。それを終えようとするとき、このままでは祖父が大好きだった私さえも失うと思い直して、卒業するためだけに頑張ることに決めた。4年生でありながら、後輩たちに混じって後期まで大学に通い続けた。もはや意地で、もはや這ってでも行く状態だった。そして自分の体調とも相談しながら、なんとか講義を受け課題も試験もパスして、ギリギリ無事に卒業することが出来た。最後まで頑張れたのは、祖父の姿がそこにいるかのように感じられたから、かもしれない。

あの日、祖父から届けられた新聞と一筆書き。どれだけの想いと言葉を掛けたかったのだろうか。今は知ることは出来ない。
でも、残されたものは生きなくてはならない。大学の先輩も伝えてくれたこの言葉を、祖父も私に伝えたかったはず。それに気付くまでに多くの時間を費やしてしまった。一度は生きることを諦めかけたことを謝りたい。

祖父の大好きな私には、まだまだ、ほど遠いかもしれない。でも安心して、私は生きているよ。そして、祖父が教えてくれた世界の楽しさを伝えていくからね。