祖父母の家で過ごした幼少時代

祖父が亡くなった。もう10年になるだろうか。
市立病院のベッドで、私と妹が祖父の手を握る。
隣では祖母が泣いている。

止血の処理をする、見ず知らずの若手の看護師さんも、めちゃめちゃに泣いていた。

祖父の手をさすりながら私は思った。
「ごめんね……」

幼い頃、私はよく祖父母の家にいた。
シングルマザーだった母が、朝から晩まで働き詰めた後に、幼い妹と私の2人を面倒見るのは大変だったからだ。

「おかあさーん!」と泣き叫ぶ妹よりも、1人で黙々と本を読んだりと大人しい私は、祖父母に預けるには都合が良かっただろう。

祖父は毎朝、寒風摩擦を日課にしていた。「長生きしたいから、身体に良い」とのこと。NHKニュースや日経新聞をこよなく愛し、必ず朝ご飯はブルーベリージャムがたっぷり塗られた食パン片手に、温めた牛乳を飲んでいた。そして1日1本のチオビタドリンク。

料理は祖母に任せっきりの祖父だったが、唯一作れるものといえば、「たまごのお粥さん」だった。
私が体調を崩すと必ず作ってくれた。

寡黙な祖父は演歌歌手の中村美津子を好んで聞いていた。車の中や自宅では『河内おとこ節』が鳴り響く。
おかげで私はこの歌を、今現在も空で歌えてしまう。
大学生の頃、テレビから流れる『河内おとこ節』のメロディーを聞いて、スラスラ口ずさめる自分に気がついた時は、心底驚いた。

祖父が特別何かをしてくれた幼少期ではないのだが、こうした祖父にまつわる記憶は不思議と残っている。

私のアルバイトの帰りを待つ祖父

それから数十年。私が浪人生になった頃から、また祖父母と一緒に暮らすようになった。まぁ色々あるのだが、家庭の事情というやつだ。

大学進学後も、祖父母の家から都内の大学へ通った。通学時間は片道2時間。朝7時に起きたらもう1限目には間に合わない。

授業を終え、家に帰る時にはもう19時過ぎ。私はそこからファミレスのアルバイトへ向かい、日付が変わる頃まで働く。

日が暮れるのも早くなってきた大学1年生の秋口。
「暗くて危ないから」と祖父はアルバイト帰りの私を、住んでいた団地の前で待つようになった。

気恥ずかしさと遅くに帰ることで祖父母に負担を掛けているという負い目から、「そういうのいいから、放っておいて先に寝ててよ!」と私は言っていたのだが、祖父は必ず待っていた。

そう、あの日も待ってくれていた。

寒空の中「お腹が痛い」と言いながら、「明日になったら病院に行ってみる」と、私の帰りを待ってくれていたのだ。

そんなことも知らない私は、祖父の姿を見つけるや否や(寝ててって言ってるのにまた待ってる……)と半ばイライラしながら、無言で祖父の横を通り過ぎた。祖父の優しさを、無視した。

祖父は私が帰ってきたことを見届けると、黙って立ち上がり、私の後ろをヨタヨタ歩きながら家に入った。

翌朝、食パン片手に日課のニュースを見る祖父を横目に私は大学へ向かった。

「おじいちゃん、もう今夜にもダメかもしれないって」

泣きじゃくる妹から電話があったのはその日の夕方だった。

前日に健康診断で受けた処置に何か問題があったのだろうか、祖父の年齢や喘息の体質もあったのだろうか。

とにかく「お腹が痛い」と言っていた祖父は、病院に行ってすぐ容態が急変した。

医師には「もう成す術がない」と言われた。

(今朝まで普通だったのに?)
(お腹が痛いと昨日言っていたことが原因?)
(あんなに健康に気を遣っていたのに?)

家族の誰もが混乱し、たくさん泣いた。
なぜ?どうして?が止まらなかった。

そして、私はとても後悔した。

なぜ、昨日私の帰りを待っていてくれた祖父に「待っててくれてありがとう」の一言が言えなかったのだろう。

なぜ、祖父の優しさを無視してしまったのだろう。

やり直したい。昨日に戻ってやり直したい。

意識のない祖父の手をさすりながら、祖父を亡くす哀しみと後悔で、私は泣いた。

祖父に謝りたい

今でも後悔は尽きない。やり直せるなら今でもやり直したい。

でも、きっとこの後悔があっても、私はいつか同じ間違いをしてしまうんだろう、と何となく感じている。だって人間はそういう生き物だと思うから。

「あの人に謝りたい」

こんな後悔を二度とすることかないようにと祈りながら、スーパーで売っている祖父のお気に入りのブルーベリージャムや、ふと音楽番組から流れてくる河内おとこ節に、今日もどうしようもなく反応してしまう。