人生における大きな課題を乗り越えた後、私はいつも一人で小旅行に出かけることにしている。
例えば、大学受験が終わったとき。合格の知らせと共に、長い長い浪人生活と予備校と家の行き来生活が終わりを告げたとき、私は一人で奥多摩に出かけた。今までの生活が、あまりに「現実」すぎたからだ。

なぜ自分が生まれてきたのか、これからどういう生き方をするのか、ひたすら英単語や歴史の史実を詰め込んでいた自分の頭には、そんなことを考える隙間さえ与えようとしなかった。だから、何をしても許される時間を自分に与えたとき、私は反動的に、何も考えず、一方で何かまだ見ぬものを考えるために、旅に出るのだった。

就職が決まった後も、今こうして大きな仕事がひと段落ついて平日のお休みをいただいた時も、こうして川越に小旅行に来ている。働きすぎた体を休めるだけではなく、急かされ過ぎた心のスピードを緩めて落ち着かせるため、誰も自分を知らない街に出かけて、一人物思いにふけりながら今後の人生について考えるのだ。

「現実の世界」と、自分と自然が調和した「空想の世界」の2つを生きてきた

私は、小さい頃からずっと、「現実の世界」と「空想の世界」の二つを生きてきた。現実の世界は、例えば学校生活や受験、会社における社会人としての生活。空想の世界は、散歩するときにふと見た川のキラキラから遠い世界を想像したり、ふと静まり返った夜にベットの中で自分の生まれてきた意味を深く考え少し怖くなるなどのこと。

現実の世界が人と関わらなければ成り立たないのに対し、空想の世界は自分きりの、もしくは自分と自然が調和した世界だ。

私は、自分のパートナーとなる人には、この空想の世界を一緒にいられる人であって欲しいと思っている。そうでなければ、自分の一部とも言える大切な部分を失うような気がしているのだ。

そして、この思いを共有できないことこそが、私があの人を振った理由。
単なるわがままなのかもしれないけど、物思いに耽っているときには、現実を思い出させて欲しくない。そんなうじうじ考えていてもしょうがねぇだろ、とりあえず飲み行くか?と誤魔化してほしくない。だって私は全く病んでないのだから。元気だけど、こういう自分の世界にふける時間がないと、私を表現する何かを生み出せなくなる人間になりそうなことが怖いのだけなのだから。

現実世界で勝ち組になろうとしている彼と、長くは一緒にいられなかった

私はこういうときに、だってあなたにもこういう時間あるでしょ?と言いたい。そして共感して欲しい。もっと贅沢言うと、あなたのそう言う空想の世界にお邪魔しても良いのなら覗いてみたい。
だから、例えば受験戦争に勝った後、今度は就活でも勝ち組になろうとしている彼。いい会社に入って高い給料でそこそこの生活をすることになんの疑問も抱いていない彼とは、長くは一緒にはいられなかったのだ。

彼らの努力はもちろんとても素晴らしいことで、否定する気は全くない。目標に向かって懸命に走り、それに見合う結果を手に入れることは、一種の才能でもあるからだ。
だから、良い悪いを言いたいのではない。ただ、それは私の求めるものではなかったっていうこと。私の好きな人には、そういう、「現代社会が作り上げた構造」だけにとらわれず、本当にそれが正しいことなのか、自分の頭で考えることをして欲しいのだ。そしてそのためには、一旦現実から離れて自分の世界に耽ることが必要不可欠だと私は思っているのだ。

めんどくささを乗り越えて、一緒に旅をしてほしかった

こういう私のめんどくささを乗り越えて、一緒に旅をして、一緒に物思いに耽って欲しい。そしてたまには夜に旅館の窓際の椅子で梅酒を飲まながら、現在世界ではみんなになかなか言えないような思いを語り合いたい。その時、お気に入りの作家の話と絡め、かの文豪はこう言った、というスパイスがあれば尚良し。

こう言うことを当時口できちんと伝えていたらどうなっていただろう。傷つけずに済んだのだろうか、それともめんどくさいし、よくわからないなと嫌われてしまっただろうか。
あなたとお別れをしたあの日。当時の私はあなたに、「友達に戻りたい」と言う定型的な言葉でしか伝えられなかった。

私からの別れのメールに、俺たちの一年ってそんなもんだったの?と少し怒り気味のあなたは、私の地元のカフェまで来てくれた。春になり掛けの、三月のほかほかする日。正直言うと、その時の私はあなたの別れを引き止める言葉よりも、カフェの外からキラキラと差し込んでくる春の日差しや、親子連れの楽しそうな声とか、そういった雰囲気に心奪われていた。その時ふと、やっぱりこういう穏やかな日に、一緒にまろやかな気持ちになれる人と一緒にいたいなと改めて思ったのだ。だからこそ、情に流されず、あなたにはっきりと「友達に戻りたいの」とお別れを告げたの。
私の意思の固さに諦めがついて、一人駅に向かうあなたの背中はなんとも言えず寂しげで、たまらない申し訳なさを感じつつ、私は私の自由がちょっと戻ってきたことを感じていた。

私のめんどくささは厄介で、これは口で言っても伝わらないし、言ったからってできるようになるものでも、しなくてはならないものでもない。もはや個々人の感性の問題なのだ。だから、結局のところ合うか合わないかは直感なのだろう。
こんなことを今日の小旅行で私は考えたのだった。