「あなたの名前はそうだね、“うじくん”、そう呼ぶことにするね。」
そう名付けたときはどっぷりはまっていた。恋に。いや一般的にそれは恋と呼ばない、ただの不倫に。

社内不倫が始まったあの頃のわたし

うじくんと出会ったのは会社だった。違う部署の人だった。今考えたらただのおじさんなのに、その時のわたしは夢中だった。仕事以外に夢中になれるものを探したかったのかもしれないし、ただセックスをしたかったのかもしれない。理由はどうであれ、そのときは全力で好きを止められなかった。

わたしたちがお互いを貪っていた期間はたぶん3年間くらい。わたしが20代前半というめちゃくちゃワンダフルな時代に妻子持ちの男なんかにはまっていて、心底自分が悔やまれる。
でも、その時はわたしにとってうじくんは100パーセントの存在だった。
村上春樹さんの「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という短編の小説になぞらえて、ラブレターを書いているくらいに。わたしにとって彼はとにかく100パーセントだった。言いかえれば、うじくん教にどっぷり入信していた。

約4年前に書いたそのラブレターにはこう書いてあった。
「今はうじくんが100パーセントな気がする。でもそれは絶対ではないから、明日には50パーセントになっているかもしれないよ」これまでの言葉がすべて過去形で書いているように、わたしたちの不倫の歌は3年間で聴き終えた。3年間の中で、一度うじくんから別れを告げられた経験があった。

これがふさわしい不倫の終わり方

その理由は、単身赴任で関西にいくことで容易に会うことが出来なくなるからだった。
でもわたしはその手を離さなかった。もちろん好きだったけど、「お前からだけは手を放すことは許さない」という思いが強かった。つまり捨てられるのが心底悔しかったのだと思う。別れを告げられる前に幾度となく、いかにも都合のいい「もっといい人を見つけなさい」という言葉をうじくんは自分に酔いながらわたしに言った。
誰にも祝われないその3年の最後は、わたしから終わらせた。単純に100パーセントだったもの、またそう信じ続けていたものが少しずつ減っていて、もう残量がゼロになっていた。
残量が減った理由はひとつだけではない。きっと3つある。

①うじくんにはわたしの気持ちなんかどうでもよくて、わたしの体だけ求めていることをリアルに感じたこと
②仕事がわたしの夢中を占める材料になったこと。そして、
③わたしの100パーセントは彼ではないということを気づいたこと。
あれだけ執着していたものをわたしはこんなにも潔く手離せるのかと思うぐらい、あっという間に0パーセントになってしまった。
わたしにはさよならとありがとうを言えるほどの体力も気力も、その連絡に気持ちを使うたった2mmくらいの行動もできないくらい、うじくんへの愛をすでに持ち合わせていなかった。それが不倫にふさわしい終わりだとも思った。

うじくん、お願いだからもう二度と恋愛市場には出向かないでください。あなたの帰る家には100パーセントの存在があるのだから。