高校の時、一度母方の祖母の家に住んだことがある。
入学後、母が結婚してから約20年間一人暮らしをしていた祖母の家に誰かが同居しようという話が出て、私と祖母が1週間ほど一緒に住むことになった。
もともとは、母と私が週末だけ祖母の家に泊まっていたのだが、ゴールデンウィークの休みに、私一人だけでも、という流れになった。
昔は仲の良かった祖母と私たち家族。いつからか距離ができていった
小学生の頃は、祖母が兄と私をショッピングモールのゲーム屋さんに行き、三人で100枚ほどコインを買ってコインゲームをしたり、夏休みになれば、阪神タイガースの試合を見るために甲子園に行ったり、花火があれば祖母だけが知っている隠れたスポットで人込みを避けて花火を見たりなど、穏やかに日々を過ごしていた。
だが、兄と私が小学校を卒業し、中学生に上がると、2人とも部活が始まって、祖母の家に寄り付かなくなった。
父の仕事が忙しくなるのに合わせて、母も父の生活に合わせて不規則な生活を送るようになっていった。
祖母は以前よりも一人になるようになった。祖母と父ははっきり言って不仲だったので、祖母から私たちの家に来ることは、ほとんどなかったからだ。野菜を育てていた祖母は、野菜を売りに行くことで、年金で不足する家計を賄っており、一人でも暮らせる人だったので、少しずつ私の家族と祖母の距離は離れていった。
もう心は離れていたのかもしれない。大喧嘩をして、また疎遠に
中学最後の年、東北の大震災があった。我が家は東北からは離れており、実際の被害はなかったが、被害の大きさを目の当たりにして、祖母が一人暮らしていることが心配になり、冒頭のような話題になった。
小学生の時は兄と三人でよく過ごしていた祖母。中学から高校に上がる3年間、年に数回会うだけで、寝食を共にすることはほぼなかったが、生活を一緒にするのは問題のないことだと思っていた。
一緒に過ごして3日ほどたった時、朝、私に一言祖母は言った。
「もう、帰ってほしい」
その前日、ささいなきっかけから祖母と大喧嘩をしてしまい、互いに一歩も譲らず、私はただただ電気を消して声を殺して泣き、寝てしまった。その次の日の朝、祖母が私の部屋をのぞいた時の第一声がこの言葉だった。
それから、私は部活にのめりこみ、また祖母と疎遠になり、大学受験、浪人、大学生活、とほとんど関わらなくなってしまった。
認知症になった祖母。彼女を一人にすべきではなかったのかもしれない
そして互いに会わなくなる期間が増えていく中、祖母が認知症になっていた。
孫の私の名前も、娘である母の名前も出てきにくくなり、私の顔を見ても、少し驚いたような顔をして、まるで他人が家に入ってきたような態度を時折見せるようになった。
喧嘩してから、およそ10年たった今、彼女を一人にすべきではなかったのかもしれないと思う。もう少し私や家族と祖母がかかわりを持っていれば、大喧嘩をすることもなかったかもしれないし、互いによく会うからこそ、関係性を修復しようと早く行動を起こしたかもしれない。あの時すぐに謝って、また祖母と会うようになっていればもっと祖母と良い関係性が作れて、彼女が認知症になるのも、少し遅らせられたのでは、と思う。
仲が悪いわけではなかったし、幼いころは大好きな祖母だった。いつの間にやら、会うのがおっくうになってしまった。
祖母は、意識がはっきりしているとき私にこう言う。
「来てくれてありがとう、今度はいつくるの?今日は泊まらないの?」
無邪気に笑い、そして寂しげに言葉をつぶやく祖母を見ると、心が痛む。祖母は今、私を見ているのだろうか、他人をみて笑っているのだろうか。一人でいるさみしさを、口に出しているのだろうか。