「いい加減にしなさい!」
 今日も娘を怒ってしまった。理由は、二つある。
「靴下をはいてね。」と言ったのに、まだはけていないこと、食事中にテレビをみていて集中しないこと。
 それほど怒る必要があったのだろうか。私の腹の虫の居所が悪かったのではないだろうか。はっと娘の顔をみるとふてくされた顔をしている。その顔に、私の思いは伝わっているのかと更に苛立ってしまう。

毎日叱ってしまう私、そしてふてくされた娘。けれど笑顔あふれる日々

 なぜ私は、娘を怒ってしまうのだろう。
 娘にはできるだけ、困ってほしくない。悲しい思いをしてほしくない。しかし、困るから自分でどうすればいいか考えるようになる。悲しい思いをするから人に寄り添おうという気持ちが生まれるのではないか。分かっている、必要な経験であることは。だから、優しくなぜそうしなければならないのかを伝えてあげればいい。
 わかっている。毎日、明日はそうしよう。次の朝を迎えれば、気持ちを入れ替えようと思う。その数時間後には、また私は怒っている。そして、娘はふてくされた顔をしながら下を向いている。「あぁ。またやってしまった。」と少し落胆しながら洗い物をしようとキッチンに向かう。
 すると後ろから娘が飛びついてくる。「ママ、靴下履けたよ。リュックにタオルもいれた!」と私の気持ちとは裏腹にすがすがしい笑顔で。なのに、私は少し罰が悪いので「うん。すごい。」とそっぽを向きながら大人気なく答える。
 そのあとも、保育園に向かう準備をしながら「ママと離れたくないな。帰ってきたら一緒に塗り絵がしたい。」と私のそばを離れない。なぜか根負けした気持ちになって、「うん!今日はお迎え一番にいくぞ!」と笑いかけると、娘はガッツポーズをしている。
 そんな姿をみると、怒っていたことなんて忘れてしまう。今日の髪型は何にしようかと相談しながら二人で鏡を見ながら髪を結う。ご機嫌になった二人はハイタッチとハグをする。そして、パパと自転車で保育園に向かう娘を見送る。

 娘が家を出てからは、今日の献立は何にしようか。昨日テレビをみながら「美味しそう!ママみて!」と言っていた唐揚げにしようか、スープには娘の喜ぶコーンをいれたものにしよう。朝は怒りすぎたかな。保育園で覚えたダンスをもう一度披露してもらって抱きしめながら褒め称えよう。頭の中はほぼ娘のことでいっぱいになる。
 そう考えると、娘が生まれてそろそろ4年経つが私の生活は娘中心になっていると思う。

この思いは私だけ?自分を責める気持ちと、娘を愛する気持ちの交錯

 お迎えに行き「楽しかった?」と聞くと、「早くママと塗り絵したかった。」と真顔で答える。あぁ。なんだ、娘の頭の中もほぼ私でいっぱいなのか。そう考えると、照れくさい気持ちと愛おしい気持ちで胸がいっぱいになる。
 私はふと自分の母も、子ども中心の生活の中で怒ってしまう葛藤を持っていたのかと疑問に思い聞いてみた。「もちろん!」と笑っていた。そのあとに「あの頃はなぁ…」と私とよく似た罰の悪そうな顔で笑っていた。
 いつか成長して母になった娘は私と同じような思いを抱えるのだろうか。
 きっとその時になると、罰が悪くて伝えることができるか自信がないからここに残しておこう。
 私の愛しい娘へ今日も怒ってごめんね。きっと明日もあなたを思って怒るんだけど。