一昨年の春、少し前まで連絡先も知らなかった姉に、生まれて初めてSOSを送った。
 連絡先を知ろうともしなかったのには理由がある。私が物心ついたときから、姉は得体の知れない「こじらせ反抗期モンスター」だったからだ。

モンスターの暴走、疾走、そして帰還

 カレー事件を私は忘れない。その日の昼、好物のカレーを頬張るはずだった私は、母親に恐ろしい形相で急かされながら、部屋中に飛び散った茶色のドロドロを這いつくばって拭いていた。母親との口論の末、姉がカレーの盛られた皿を床に叩きつけたのだった。無残に割れた皿を横目に「ババア、うるせんだよ」と捨て台詞を吐いて、モンスターは自室へと消えた。私が中学2年生、姉が高校3年生の時だった。

 3.11のゴタゴタの中、退学をなんとか免れた高校を卒業した姉は、家族の誰にも感傷に浸られることなく、福島から上京していった。姉に占拠されていた煙草の吸い殻やアルコールの缶が転がる治安の悪い部屋は、よい子の勉強部屋になった。
 ほっとしたのもつかの間、モンスターは失踪した。入学早々専門学校の寮から抜け出し、姿を消したらしい。入学金、前期の学費、寮費など多額の費用が泡と消えた。癇癪を起こした母親が姉の携帯を解約したから、連絡手段も途絶えた。

 一年近くたってようやく見つけ出された姉は、キャバクラ嬢に変身していた。
「あの子が何を考えているのか全く理解できない。私は真面目に生きてきたのに」
祖母に言われるまま一流企業に就職し、当時の「常識」である「25歳までの結婚」を成し遂げ、「真面目」に子育てに励んできた母親はヒステリックに叫んだ。モンスターの話は禁句になった。

 失踪事件が落ち着いてしばらく経ったころ、姉がご帰還した。数日間の帰省だった。大学の編入学試験が迫っていた私は、いつにもまして勉強に打ち込んだ。というより、打ち込むふりをした。おかげさまで、姉が東京に帰る前夜まで特に話はせずに済んだ。
「あんたは、私とは違って真面目に生きていくんだろうね。それがいいわ」
 あの夜、私に背を向けながら独り言のようにつぶやいた姉の姿が妙に印象に残った。

「俺の女にしちゃいたいな」耳を疑ったが、聞き流した

 2018年の春、都内の国立大学に合格した私は、「何かあったときに頼れるから」と母に言われ、気乗りしないままラインに姉を追加して上京した。
 大学3年の冬、時給950円のアルバイトの帰り道、焼きたてのたこ焼きの匂いにつられて、思わず近所のたこ焼き居酒屋に立ち寄った。木枯らしに晒されて冷え切った体に熱々のたこ焼きが染み入った。笑うと目が三日月になるダンディーな店長も好印象だった。常連客になった私は、ある日アルバイトの話を持ちかけられた。時給1300円で土日片方4時間だけの勤務。秋からの留学費用を稼ぐため、既にアルバイトを掛け持ちしていた私は、「お店を盛り上げるために色々一緒に頑張ってほしい」という店長に、笑顔で応えた。店長の顔には三日月が踊った。

 元気よくお客さんに注文の品を提供するだけの単純な仕事。スキップをしながらのれんをくぐり、鼻歌を口ずさみながら開店を待った。客入りの少ないある日、店長は少し長めに煙草休憩をとった。15分後、ニコチンの臭い口にお酒をついでほしいと猫なで声で頼まれた。営業時間中だったが、「お疲れ様です」としゅわしゅわのビールを差し出した。「ほんでぃ、ほんと好き。俺の女にしちゃいたいな」。耳を疑ったが、1人でお店を切り盛りする店長にはストレスがたまっているんだろう、そう思って聞き流した。

 常連客だった時は気づかなかったが、確かに客入りが少ない店だった。(2時間で3人しか客が来なかった日もちらほらあった。煙草休憩の回数も、店長にビールをそそぐ機会も増えた。「店を盛り上げるため」に接客を学ぶという名目で他店の「視察」に渋々同行したはずが、「デート」だと喜ばれたこともあった。一連の出来事に嫌悪感を抱きつつも「仕事だから仕方ない」と、自分の感情に蓋をした。そんな私の態度は状況を悪化させた。ついには、下ネタを繰り返す客の間に座って酒を飲みながら会話をすることも仕事になった。

 鼻息の荒い中年男性に、セックスの経験人数をしつこく聞かれて「やめてほしい」と一言苦笑いで返した時のこと。即座に店長は私を「真面目すぎる」と嘲笑し、鼻息おじさんに謝った。最後のお客さんが店を出た後、「お店を盛り上げるために頑張るって言ったよね? 恥欠かせないでよ」と鋭い眼光で叱責された。何か言いかけたら「口答えする女とは働けない」と怒鳴られた。責任感や恐怖からか、それとも同情心からか、この一件の後も私は「いらっしゃいませ」を言い続けた。

「自分を大切にしな。真面目すぎるのも大概にしなよ」

 4月の初旬、些細なことで「やめろ」と叫んだ店長に、思わず頷いた。自室に戻ったら肩の力が抜けて、カーペットの上に崩れ落ちた。数日後、月末に手渡されていた賃金が一部未払いであることに気づいた。あの顔は思い出すだけで吐き気がしたし、店の前を通るだけで足には震えが走った。だが、苦行の対価が支払われないことには納得できなかった。支払いを請求するメッセージを送ると、「手渡しがこの店のルールだから、自分で直接店に来て」と返信が来た。青ざめた私の頭に浮かんだのは姉だった。高校生の時、金を貸せとせがんできたヤンキーと殴り合いをして、顔に痣を作って帰ってきた姉。ストーカーに包丁をつきつけたこともあるモンスターが、今だけは必要だった。

 午前中、駅で待ち合わせをした。昼の仕事につくようになった姉は、わざわざ半休を取ってやって来た。事のてん末を聞き終えた姉は声を荒げた。
「1300円で自分を貶んな」
「ババア、うるせえんだよ」の時と同じ、凄い気迫だった。前職での経験が姉の口から淡々と語られた。賃金と仕事内容に折り合いをつけて覚悟を決めてプロとして仕事に臨んだこと、精神的にはだいぶ堪えたことなど、初めて聞くことばかりだった。

「自分を大切にしな。真面目すぎるのも大概にしなよ」
 ボイスレコーダーを片手に店の横で出撃体勢をとっていた姉は、3月・4月分の給料を手にして安堵の表情で戻ってきた私に、ぴしゃりとそう言った。ご飯を奢ろうと思っていたのに、みるみるうちに後ろ姿は遠くなった。酸いも甘いも噛み分けた後ろ姿は、堂々としていて、カッコよかった。。その日モンスターは、スターになった。