私の旦那は、付き合っていた頃笑って叫んだ。
「めっちゃ顎長いよね、ハハハ!」

自分のコンプレックスを笑われて、酷いと悲しみ、私は怒るか……いや、今は無い。
この一言は、悪く捉えたらバカにされているように聞こえるだろう。でも、今の私は笑って返す。
「でしょ~ほんと長いんだよね笑」
「私の自慢の顎!笑」

コンプレックスだと思ってしまえば、恥ずかしいまま終わってしまう

そんなに長いわけでもないが、まあ、顎は少しでているだろう。旦那はいつも、私をいじるのだ。しかしそれは、自信を持って笑えることだ。バカにするとかそういう意味ではなく、ただ、笑って受け止められるということだ。
何が言いたいのかと言うと、コンプレックスだと思ってしまえば、恥ずかしいまま終わってしまう。だが、自信を持って話せば、それはコンプレックスでは無く、私らしい素敵な宝物になるのだ。

私は自分の恥ずかしい部分を昔はたくさん隠して生きていた。歯並びも恥ずかしいから矯正をしたり、鼻がでかくてマスクで隠したり。自分の自信の無いところを誰かに見られることが恥ずかしかった。
でも、それは大人になってから、自分が作り出してしまった勝手な〝恥ずかしい〟だと気がついた。そんな私に出会った頃の旦那は言ったのだ。
「なんで恥ずかしいの?いいじゃん、そんな自分で。何が悪い!これが私よ!それでいいでしょ?」
「え、みんなが顔が小さいのが普通だと思ってるの?世界がそう思ってるの?バカじゃないのそれ!皆違うのがあたりまえなのに、誰がそんなあたりまえを作ったのさ!俺は君をバカにはしてない、そんな君が好き」

恥ずかしいと思っていた何かに、自信が持てるようになっていた

そして、彼は私の気にしていることを今日まで毎日いじっている。自分に自信の無かった私は、恥ずかしいと思っていた自分の何かに自信が持てるようになっていた。そして、気にしていた恥ずかしい部分はちっとも、恥ずかしいものではないと気がついた。
勝手に作りだしていた、恥ずかしいだったのだ。

そして、私は今思う。
もし子供ができて、
「うちのお母さん料理下手なんだよね」
そう、人が大勢いる外で大声で言われて、
「恥ずかしいから大声で言わないの」
なんて言いたくない。
「お母さん、料理下手よ!難しいもの。なので今日は味付き肉焼くだけです!」
「でも、私は掃除は上手よ、仕事はできるよ、すごいでしょ!」
そんなふうに、出来なくたって恥ずかしくないんだぞ!と子供にも伝えたい。
できる部分もできない部分も、自信を持ってちゃんと伝えたい。

もし、そこで恥ずかしいから外で言わないの、なんて言ってしまったら、子供だってそれが“恥ずかしいこと”と思ってしまうし、女性は料理ができないと恥ずかしいと思い込んでしまう。

できないことも、不得意なことも、決して恥ずかしいことではない

何が言いたいのか。自分にも子供にも、いつか、周りの皆にあたりまえをもし、押し付けられても、自信を持っていて欲しいのだ。
あたりまえなんて、誰かが勝手に作っているのだ。
だって、女性が料理ができることはあたりまえでもないじゃないか。苦手な人だって、したくない人だっている。皆それぞれ違うのだ。それは、それでいいじゃないか。
亭主関白だった、昔の人間の祖父は「女は料理ができんといかん」と言うかもしれないが、それは祖父のあたりまえである。
私は自分らしい自分を大切に生きていきたいと思うから。
もちろん、料理ができるように努力はする!笑

でも、子供が大人になった時に、自分ができないこと、不得意なこと。できること、得意なこと。両方を自信を持って伝えられる大人になって欲しい。
できないことも、不得意なことも、周りの言う当たり前でないことも。決して恥ずかしいことではないのだ。
私は今、そう思うのだ。