食べ終わったチョコレートの包み紙を渡すと、無言でポッケにしまってくれちゃう、彼が好きだった。

そして、これがふられた理由であるのだと思う。

私は依存体質で「正しい距離感」を保つことが難しかった

好きな人のいる時の感情の昂りは、何者にも変えられはしない。LINEの着信画面に表示される好きな人の名前にキュンとする。好きな人の好きな人が自分だった時の、まるで何か優勝したような高揚感。

付き合うと共に変わっていく、自分と相手の呼び名、優しく自分を呼ぶ声への安心感。自分から移った癖を見つけて、相手を限りなく愛おしく思う瞬間。

そういう、自分と相手を混同せずに抱く恋愛への感覚は、とても重要であると最近気がついた。正しい距離感。

“正しい距離感”、これはきっと、人類みんなの課題で、家族や友達、恋人など周りに存在する人間と近すぎず遠すぎない距離を保つのはとても容易じゃない。

とりわけ私は依存体質で、それを自分で理解しているから友達にも家族にも、正しい距離感を保たなくてはと意識していた節があったと、最近気がついた。

気をつけていないと、よりかかりすぎてしまう程ふにゃふにゃ。でも、心の底では常に、全体重でよりかかれる存在を求めていた。そんな奴にパートナーが出来るとどうなるか。

はい、メンヘラの誕生。真っ逆さまに、堕ちていった。

私のどんなわがままや嫉妬、束縛にも付き合ってくれ「私=彼」だった

大学の同じサークルだった彼は、優しくて、真面目だけどどこか気怠げでだらしなくて、対等に自分を見てくれていた。私のどんなわがままや嫉妬、束縛にも付き合ってくれた。

ありきたりだけど、そういう人だった。大好きだった。会えない時は、常に電話した。喧嘩は多かったけど、幸せだった。満たされると共に、私の生活や思考が彼でいっぱいになった。埋め尽くされてしまった。自分=彼だった。

生活が堕ちていくのも、一瞬である。

大学生、二人とも酒が好きなこと(関係の中でここが本当に大きい)で、会っては必ず一緒に酒を飲み、気が大きくなって、終電などの心配ない最強の人になった気になり、終電を逃し、(以下省略)。

そして、気怠く昼ご飯を食べて、各実家へ帰宅する。これがデートのルーティンだった。

生活の堕落と反して、気持ちは最高。だって、私=彼なのだ。生きてるなって感じで、ちょっとも寂しくなんかない。ほんと、幸せだった。

同じ界隈であるので、周囲からの2人の存在も“=”になっていったから、関係が沼化するのは当然だ。安心、安定、幸福。でも、結局気づかなかった。気づけなかった。

二人の関係は「私=彼」だったけど、それは彼を苦しめていたのだ

彼は、苦しかったのだ。自由を、自分を、求めていた。

食べ終わったチョコの包紙を渡されると、無言でポッケにしまうような距離感が。自分のポッケ=彼のポッケ、なんて雰囲気を出す彼女が。

そうして、私たちは別れた。喧嘩別れだった。

彼は今、ようやく彼女=自分から解き放たれ、自分のポッケをタバコの包み紙で埋めているだろうな。甘いチョコ、あんまり好きじゃなかったかな。

正しい距離感は、私を含め人類の課題。彼への敬意を共に。