彼は泣いていた。
私は、驚いて声も出なかった。
彼と付き合って1年と2ヶ月。
彼が私の前で泣いたのは、これで2回目だった。
始めに言っておくと、私が彼をふったのではない。
彼が、私をふった。
だから、彼が泣いたことに、私は心底驚いたのだ。
彼から「距離を置こう」と言われたのは2ヶ月前のこと。
旅行の帰りでの出来事だった。
そうか、確かに。この旅行で、一度だって私に触れなかった。
キスはもちろん、手を繋ぐことすらしなかった。
滑稽だが、そこそこ楽しい旅行だと思っていた。
でも、言われてみれば、振り返ってみれば、恋人らしいことは何もしていなかった。
紛れもなく、拒絶されていた。
「距離を置く」って、なに?
当時の検索履歴を見たら、その言葉がたくさん残っているだろう。
「別れたい」ってことですよ。
残酷なベストアンサー。ちっとも救われなかった。
つらくてつらくて食事がのどを通らなくなる。惨めでしょうがない
その後、話し合いに話し合いを重ねた。
どのくらい「距離を置く」の?
1年くらい、と彼が答えた時、私は、
それって、「別れる」のと何が違うの?
とたずねてしまった。決定的な質問だった。
それから1ヶ月ほど、辛くてつらくて、食事がのどを通らなくなった。
フラフラしながら玄関を出ると、ぐらっと世界が傾いて、私は吐いた。胃に何も入っていないから、透明な液体が出た。
惨めでしょうがなかった。
もっと君より、良い人がいるかもしれない。
このまま情で一緒にいるのは違うかなって。
もっと別の世界を見てみたいんだ。
彼がつらつら"理由"を説明する姿が、私の頭の中にいつまでもまとわりついた。
そして同時に、また別の場面も、フラッシュバックした。
いつものように、彼が私の部屋のインターホンを押す。
私は料理の手を止めて、玄関を開ける。
私の顔を見て、彼が幸せそうに微笑んで、早く結婚しようよって言った場面だ。
どこでずれたんだろう。
あの日?それとも、あの日?
何を間違えたんだろう。
あの言葉?あの表情?あの仕草?あの行動?
必死に記憶を呼び起こす。
そんなこと考えたって、何も変わらないのに。
泣かないと決めて思い出をすべて返却。いい女を演出できた
それでも、日が経つと、私はそれなりに落ち着きを取り戻した。
部屋には、ありあまるほどの思い出。
私は、彼からもらったアクセサリーや、アルバムや、手紙を、1つの紙袋にまとめた。
最後に一度だけ会おうと連絡を取り合った。
深夜に、自転車で彼のアパートへ向かった。
何度も何度も通ったこの道も、今日で終わり。
彼はアパートの下に立っていた。
今までありがとう、と笑顔で言いながら、紙袋を渡した。
もういらないから、返します。
泣かないって決めていた。うまくいった。
最高の笑顔で、目を見て感謝を伝えて、いい女を演出できた。計画通りだ。
これで終わり。
そう、誤算だった。彼が泣くのは。
予想していなかった。彼が泣くなんて。
しまった、と思った。
このシナリオは私の頭の中になかった。
なんで泣くの。
私はたずねた。
申し訳なくて。こんな結末になって。
ごめんね。ありがとう。
電灯の少ない、暗がりの中で、彼は静かに泣いた。
私は、じゃあね、本当、ありがとう、と言って、自転車をこぎ始めた。
彼から自分の姿が見えなくなるところまで、
こいで、
こいで、
視界がぼんやりしてきて、
私は、こぐのをやめた。
彼が初めて泣いた日。仲直りできてよかったなと思って、と彼は答えて
自転車を押しながら、彼が初めて泣いた時のことを思い出していた。
2人で映画を観に行った時、些細なことで喧嘩した。
私は耐えられなくて、上映中なのに抜け出した。
仲直りしてしばらく経ったあと、あの映画もう一回観に行こうよと彼が言った。
映画を観終わって、2人で手を繋ぎながら帰った。
そしたら、急に彼が泣き始めた。
なんで泣くの。
私は笑いながらたずねた。
仲直りできて、よかったなって思って。
涙を何度も拭いながら、彼は答えた。
私は、自転車を押しながら、
何度も、
何度も、
その時の彼の表情を、
思い出していた。