センター試験や共通テストのニュースを見るたび、私の大変だった大学受験の2年間を思い出す。
現役受験の高校3年生の1年間と、浪人生の1年間。

苦しかったあの日々は、今となっては良い思い出になったけれど、当時は本当にきつかった。高3の頃にずっと聴いていた曲は、大学生になってからしばらく経っても聴くと吐き気がするくらい、当時の私の精神状態を保存していた。

「落ちても、こちらの責任はないから」。先生たちの冷たい言葉

私の大学受験は何度も言うけれど、大変だった。
第一、志望校を高望みしすぎた。音楽大学の受験を希望していた私は、高校に上がるとき両親に「公立の芸大にしてくれ」とお願いされてしまった。
私が通っていた高校は、私立のいわゆるお嬢様学校で、生徒のほとんどが推薦で大学進学するような環境だった。公立を志望する生徒はほんの数人だったし、しかも私の志望校の学部に入学した卒業生は過去に1人もいなかった。だから先生たちは受験はおろか、大学についてさえ全く知らないような状況だった。

私の志望校の芸大の音楽学部の入試は、1月のセンター試験と、3月の半ばごろに一次試験が2日間、その数日後に一次試験の合否次第で二次試験を受けられるという日程だった。
何度、受験要項と過去問題を見ても当日の流れが分からず、不安に思って先生に質問しに行くが「わからないから、自分で調べて」と突き返された。もう自分で散々調べてきて、どうしようもないから質問しにきたのにだ。ずっとそんな状況だった。

先生たちは「私学の滑り止めは受けるのよね?」と何度も確認し、「落ちたとしても、こちらの責任はないからね」という意味のことさえも言われたことがあった。当時の私は絶対に公立に受かるなんて無理だと思っていたけれど、両親は経済的な問題もあり絶対に公立しか認めなかったから弱音も吐けなかった。
先生たちは何度も私立の受験を勧めてきたけれど、私は強がって「公立しか行く気はない」と言うことしかできなかった。先生たちには私の事情を説明しなかったので、さぞ高慢ちきでプライドの高い高飛車な生徒に見えていただろう。

1年越しに叶えた夢。周囲の手のひら返しを、私は許せなかった

現役受験はやっぱり失敗した。
自分では何となく無理だろうなと思ったけど、やはりすごく悲しかった。
落ち込んで部屋で泣いていると、父がやって来て「何で泣いてるん?泣いてる暇あるんやったら練習すれば?」と言ってきた。耐えられず高校に行って先生に弱音を吐こうとすると、「卒業したら関係ないのに、何を泣こうとしてるの?」と突っ放された。
その時私は、完全に吹っ切れた。

そのお陰で私の浪人生の1年間は、とても充実した良い365日になった。
両親が上手く監視してくれたこともあり、毎日時間割を決めて規則正しく生活できた。月に1日だけ遊びに行く日を決めて、朝から展覧会や趣味の御朱印集めに行ったりもした。1年は案外長く、苦しくて諦めそうになったりもしたけれど、本を読んだり絵を描いたり、上手く息抜きをしながら生き抜いた。

無事に志望校に合格した私は、誇らしい気持ちで高校に合格報告に向かった。合格を聞いた途端「公立大学合格者として、文章書いてもらえる?」と、手のひらを返したようにヘラヘラしてくる先生たちに、私はきっとものすごく冷め切った顔をしていただろうと思う。執念深い私は、未だ先生たちのことを水に流すことはできないけれど、それを母に言うと「そう言っているうちは、あなたはまだまだねぇ」と言われてしまう。

でも、特別な私の2年間。嫌な思い出にも感謝できる日がきますように

許すことは、難しい。けど自分自身のためにも、水に流していかなければならないんだろうなと思う。そういう悪い感情をずっと引きずっていると、私はいつまでも成長できないだろう。

受験は大変だったけれど、お陰でたくさん成長できたし、私にとって特別な2年間だった。あの日々を経たからこそ、今の私がいる。だから悪い思い出にも感謝して、「嫌なこともあったけど、もういいんだ」と言えるようになっていきたい。