私には、呪いのように頭から離れない一言がある。
「女はどこかで人生を諦めなきゃならないんだよ」
人生の辛酸を嘗め尽くした母の言葉だ。

「夢を追いかけるのは勝手だけど、ある程度で諦めなさい」私には目標と夢がある

幼いころからの夢は小説家だ。それは今でも変わっていない。辛い時や悲しい時、私の心の支えとなったのは、たくさんの物語たちだった。その恩返しにしては小さいことだけれど、自分の生み出した物語の主人公が誰かの人生の支えとなってくれるような、そんな物語を一つでも紡ぐのが人生における私の目標だ。

ただもっと幸運なことに、30年近く人生を重ねていく中で、もう一つ夢を持つことが出来た。すべての観客、すべての従業員が幸せを感じることのできる映画館を創り上げることだ。映画という芸術を愛しているからこそ、その場所を守り、後世に伝えていきたい。映画もまた、私の人生を支える一つの柱なのだ。

新卒採用で業界に運良く就職でき、それを叶える可能性を感じられるところまで登ってきた。生真面目で人付き合いが得意ではない私がここまで来られたのも、周りの助けがあってこそだ。
彼らは決して「君が女性だから、それを実現するのは不可能だよ」と言わなかったし、「君の実力とアイデアがあれば、きっとうまくいく」と背中を押してくれる人ばかりだった(もちろん、耳の痛い忠告も多くあった)。
それなのに、私の足は時折、未来のチャンスを前に竦むことがある。
「あなたは女なんだから、男の人と同じように生きるのは無理だよ。夢を追いかけるのは勝手だけど、ある程度で諦めなさい」という母からの言葉が、頭の中をぐるぐるしている。

結婚や出産だけが、幸せのカタチではない。私は自分を変えたい

20代前半の頃は、そんな言葉なんてと蹴散らすことが出来た。
それから10年近くたった今、結婚や出産の周りの声を聞くたびに、「ああ、私もどこかで諦めなくてはならない時が来るのかな、諦めるならどのタイミングがベストなのだろうか?」という考えが過る。全ての結婚や出産が諦めた末の決断であるはずがないのに、自分で刷り込んできた思考を止めることが出来ない。それにとらわれて、夜も眠れないほど不安に苛まれることがある。

夢を追いかけることが悪いことだとは思わないし、それをできる自分を誇りに思っている。それでも「幸せになるためには人生を諦めなくてはならない」という半ば呪いのような言葉が、他者の幸せのカタチを否定することに繋がっている。そのことが、私はどうしても不快でならない。
私は自分を変えたい。結婚や子供を持つことだけが幸せだと決めつけることをしたくない。自分の生き方を自分で尊ぶことのできる人間でありたい。自分のことを好きだといえる強さが欲しい。
ここ最近は、友人からでさえ「結婚しないと一生寂しいままだよ」と言われるようになった。その言葉は、私にかけられた呪いの上に漬物石を載せるようなものだった。

私が夢追い人であることがそれに追い風を吹かすのなら、いくらでも追っていきたい

心の中の母がひょっこりと顔を出して、「それみたことか。早く安心させてくださいよ」とばかりに心を急かしても、「私は大丈夫だから」と胸を張って言えるようになりたい。
そのためには、「私」という存在を社会に認めさせる必要があるのだろう。
「女一人で生きているのはイタイし不幸せそう」というレッテルもごめんだ。私の手で得た成果で、堂々と胸を張って生き抜ける人生にしたい。
自分の頑張りや結果に至る過程の努力を、大切にしてあげられるようになりたい。私として生きる人生の傍らに結婚があるのなら、それはそれで大切にしたい。さまざまな選択肢があって当たり前なのだと社会と自分に示していきたい。そして、いつか私と同じように悩む人に出会ったとき、助けてあげられるような強さを持っていたい。

女だから、という理由でどれだけの人がどれだけの夢を諦めてきたのだろうと想像するだけで、時折涙が目に滲む。夢を追えるだけでも今は幸せなのかもしれない。
けれど私は、男女関係なく全ての人が平等に、何も諦めることなく、人生を謳歌することが当たり前になってくれることを望んでいる。私が夢追い人であることがそれに追い風を吹かすのなら、いくらでも追っていきたい。何一つ諦めないで、自分らしく最後まで生き抜く。そんな強さを持てる私に、自分を変えていけたらと思っている。