テレビやネットニュースなどで、“美女アスリート”“美しすぎる○○(競技名)選手”という表現をよく目にする。そのように紹介されている女性アスリートは、可愛らしい顔立ちで、日々行っている激しいトレーニングからは想像できない、華奢でスラっとした体型であることが多い。彼女らは時に、その日最も活躍した選手よりも大々的にニュースに取り上げられることもある。そんなニュースを見ると、私は学生時代の出来事を思い出してしまう。
高校での球技大会。スポーツの得意な私より、可愛い女の子に大きな歓声が上がっていた
私は昔から、スポーツが得意だった。同級生の平均よりも10cm以上高い身長と、筋肉のつきやすいがっしりとした骨格のおかげもあると思う。しかし、小学校低学年の頃から地域のスポーツクラブに所属し、厳しい練習を乗り越えてきたからこそ得られた身体能力だと思う。毎年学校で行われる体力テストも、常に学年上位であり、自分の体力には自信があった。
私が通っていた高校では、年に1回、クラス対抗での球技大会が行われていた。サッカーやバスケットボールなどの種目があり、クラスの中でそれぞれチームを作り、学年関係なく他のクラスと白熱した試合を行う一大イベントだった。
私はバスケットボールに出場した。身長を活かして、ゴール前でこぼれたボールを取ったり、シュートを決めたり、未経験ながらも周囲から頼りにされる存在だったと思う。
体育館には、他の種目に出場する同じクラスの生徒や、試合の順番を待つ他のクラスの生徒など、たくさんの生徒が試合を見ていた。
そんな中、私は気付いてしまった。私がシュートを決めたときよりも、同じクラスの可愛い女の子がシュートを決めたときの方が大きな歓声が上がり、ギャラリーは盛り上がっていたのだ。
外見を競う場ではないのに。行き場のない妬ましい気持ちが、私の心の中を曇らせた
彼女は、当時の私のジャッジでは“まあまあ運動ができる方の子”であったが、小さい顔の中にある大きな目が特徴的で、スタイルも良く、学年でトップレベルの容姿を持っていた。そんな彼女を見て、試合後にギャラリーの中から「あの子、可愛くて運動もできてすごいよね」と話す声が耳に入った。私への称賛の声も皆無ではなく、「すごかったね」「かっこよかったよ」と声をかけてくれる子もいた。その言葉は純粋に嬉しかった。
しかし、ギャラリーからの歓声を浴び、プレーだけではなく外見についても褒められる彼女が羨ましかった。正直に言うと、“外見を競う場ではないのに”、“私の方が活躍したのに”と、妬ましい気持ちもあった。
結局、外見か。心の中にモヤモヤとしたものが溜まっていくのを感じた。
私のように明らかに運動のできそうな体格の、平凡顔の人間よりも、可愛い子の方を応援したくなる気持ちも、まあまあ理解はできた。それに私は彼女の人柄が好きだったし、責める対象が分からない行き場のない気持ちは、20代半ばになった今でも、私の心の中を曇らせている。
ただ私は、外見を抜きにして自分のプレーを見てほしかったし、これまでのスポーツ歴での努力を認めてほしかった。外見で評価されないのだから、せめてスポーツでは評価されたかった。
人々がスポーツをする姿は美しく、胸を熱くさせてくれる。全員、輝く存在なのだと思う
だからこそ、“美女アスリート”“美しすぎる○○選手”と表現されているのを見ると、私はそのように取り上げられることのない、他の選手のことを考えてしまう。
“美女アスリート”と呼ばれない時点で、“美女ではない”と遠回しに言っているように感じてしまう。
また、“美女アスリート”と呼ばれる選手も、外見ばかりではなく、自らのプレーや日々の努力に注目してもらいたいと思っているのではないかと考えてしまう。
私は“美女”と呼ばれる側ではないので分からないが、いい気分になる女性アスリートはほとんどいないのではないかと思う。
私は、今はもうスポーツをする側ではなく、観る側になってしまったが、観る立場としても、アスリートの好プレーや頑張る姿を純粋に楽しみたいと思う。人々がスポーツをする姿は美しく、私たちを熱狂させ、胸を熱くさせてくれる。
彼女らは全員、“美女アスリート”という表現がなくても輝く存在なのだと思う。