実家で同居していた祖母の7人の兄弟姉妹は驚くことに全員が健康で、仲が良く、遠方に住んでいる人を除いて月に一度大叔母の家で集会を開く。
わたしも祖母のお迎えがてら、よく顔を出していた。

祖母の弟にあたるおじさんは、身体も声も大きくて食べ方も飲み方も豪快な人だった。
大きな身体で大きなトラックを運転していて、よく道東のお土産を買ってきてくれた。
幼少期は好きとも嫌いとも思ってなかったけど、関係性が変わったきっかけは中学校にあがってすぐ。

吹奏楽や音楽、年々共通の話題が増え、近づくおじさんとの距離感

音楽が好きで吹奏楽部に入ったわたしは、見たことも聞いたこともないユーフォニウムという楽器の担当になった。これは自虐だが、ユーフォは楽器も奏者も本当に地味だ。わたしが話した限り、この楽器を知ってる人はいなかった。ただ一人、おじさんを除いて。
『おお、ユーフォか、もちろんわかるぞ』とあっけらかんと言われた。
そのとき、おじさん自身も中学生の頃吹奏楽部だったと初めて知った。その喜びは大きく、それから会うたび吹奏楽の話をしてくれた。

流れでおじさんは昔から音楽が大好きなこと、鍵盤2本はじいてしまいそうな太い指でピアノも弾けること、バンドも組んでいたことを聞いた。それはちょうどわたしがバンド音楽という沼に足を突っ込み始めた時期と重なって、年々おじさんとの共通の話題は増えた。
その後進学した高校にも吹奏楽部はあったけど、お遊びにしか感じられず入部は辞めた。それを報告したときおじさんは『いい、いい、やめれ!』ってがはは、と笑った。

おじさんの希望の人ではなかったけど、結婚式には招待したかった

『彼氏いんのか?どうせなら内地(※本州)の人間にしろよ。で結婚式向こうで挙げて、俺を呼んでくれ、旅行したい!』
とこの頃からたまに言われるようになった。

その後趣味となったライブイベントを渡り歩くうち、音楽系専門学校に進学を決める。
ほとんどの人が物珍しそうな反応を返すなか、おじさんだけはやっぱり肯定してくれた。『おー!いいじゃねえかー!』って、耳をつん裂くような大声で。

その専門学校でわたしは今の旦那と出会い、交際を始める。
交際から数年、集まりでその話題になったとき、「おじさんごめん、普通に札幌の人だったわー」って報告したら、優しい笑顔で『いい、いい、しあわせにしてもらえ!』ってやっぱりがはは、と笑った。
その言葉がすごく嬉しかった。
「札幌だろうけど、呼ぶから来てね」っていうと、『おう、わかった』と大きな手で小さく見えるコップの中の酒を煽った。

今考えればおじさんの娘2人は結婚式を挙げていないから、やっぱりわたしが招待してあげたかった。
でも、少し遅すぎた。
おじさんは5年前の暮れ、運転していた除雪用トラックごと海に落ちて、突然この世からいなくなってしまった。
あの快活で、押しても引いても倒れなさそうな大きい身体でがははと笑うおじさんが、生まれ育った寒空の海に落ちたくらいで消えてしまったことが未だに信じられない。

結婚式を挙げるとき、約束は果たすから、それまでもう少し待っててね

葬式で過呼吸寸前まで泣くわたしを見て、驚いていたのは母と祖母だった。
だって唯一音楽の趣味を共有できたことも、結婚式にきてねって約束をしたことも、それが間に合わなかったわたしの後悔も、母と祖母はたぶん知らない。
でもまだ心の内に秘めておきたくて、「色々あるのよ」って涙を拭って笑っておいた。

『しあわせにしてもらえ』の言葉通り、しあわせにしてくれる人と結ばれたことをおじさんに見せたい。その思いは変わらず、披露宴でおじさんの席を用意することはわたしの中で決定事項になった。
しかしようやく結婚が決まった矢先、コロナが猛威を振るい始めた。
入籍や顔合わせは無理やり済ませたものの、未だに式は挙げられずにいる。
でもいつかきっと、もう少し頑張って、何の不安もなくみんなが集まれるようになる頃、きっと約束は果たすからね。それまでもう少し待っててね、おじさん。