私は中学に入学するまでは、学校でも家でも同じ自分だった。
ありのままの自分でいられた。
でも今は本当の自分、ありのままの自分ってどんな姿だっただろうかといくら考えても思い出せないし、わからない。

無意識のうちに人の顔色を伺う人間になってしまったようだ

私がありのままでいられなくなったのは中1の時、学級委員に立候補したことが原因でいじめにあったこと。わざと階段から突き落とされたり、ロッカーを壊されたり、ロッカーの中の色鉛筆が真ん中でバキッと折られていたり、そういう目に見える辛いことも沢山された。

それよりもクラスメイトの視線だったり陰口だったりがものすごく怖かった。また本当の自分を曝け出して意見を言ったら陰で何か言われるんじゃないか、本当は自分の言いたいことを言いたかったけれど、それよりも怖い気持ちが勝ってしまって、いつしか人の顔色ばかり伺って生活するようになった。何かを発言する時は、本当は思っていなくてもこう受け応えしたら風当たり弱そうとかそんなことばかり考えていた。

こんなことをするうちに、無意識のうちに人の顔色を伺う人間になってしまったようだ。それは社会人になった現在でもそうである。そう簡単には治らない。
そして昔も今も、勝手に人にキャラを付けられるのだ。中高大、そして今もいわゆる「いじられキャラ」だと言われている。いじってほしいなんて思っていないし、いじられると嬉しいなんて思わない。このキャラすら嫌なのだ。

天然なキャラを繕って、「天然だから仕方ない」と思わせようとした

でもどこに行っても私は「いじられキャラ」である。無意識に自分自身で作り出してしまったキャラなのかもしれないと思っている。いじりがいがあると言われると、何か自分の弱いところを突かれたような気になる。悪意なく「いじりがいがある」と私に言ってくる上司たちは、私の真面目すぎるくらい真面目な性格が客観的にみていて面白いし、いじると面白いという。真面目なことはいけないことだろうか。私はわりと何事にも真面目に取り組まないと気が済まない性格ではある。その自負はある。

でも手を抜いたり、ズルをしたり、人に迷惑をかけたり何も悪いことをしていない。むしろ真面目って良い姿なのではないかと思う。でも世間は真面目を嫌う傾向がある。真面目な人は面倒くさいと思われる。
だから素の真面目だとウザがられるのであれば、天然なキャラを繕って、この子は天然だから仕方ないと思わせるようにしようといつしか思うようになった。天然キャラは、誰からも愛されるプラスのイメージだからだ。

自分が胸を張って生活できるようにするための努力でないと

でもこのキャラすらきちんと確立されず、元々の真面目と頑張って繕った天然キャラが掛け合わされていじるのにちょうどいい人材になってしまったのだと思う。
自分ではキャラとかそんなものはくだらないし、疲れるので封印したいと思っているのだが、長年の癖なのか、今でもありのままの自分にはなれていない。

理想の自分と現実の自分があること、その2つが大きくかけ離れていたとしても仕方がないと思う。むしろ理想の自分を掲げてそうなるために日々努力をすることは必要だ。
でもその努力は自分を偽るためのものではなく、自分が胸を張って生活できるようにするための努力でなくてはならない。
自分はどんな自分になりたいのか、今の自分は理想とどう違うのか、どうしたら理想に近づくことができるのか日々考えている。
頭ではこの理屈がわかっていても、自分の習慣付いてしまった行動やキャラはなかなか一気に消えてはくれない。それは根底にあるありのままの自分では否定されるのではないか、うまく人間関係が築けないのではないか、誰かにまた悪口を言われるのかもしれない、こんな不安からくるものだと思う。

人がそこまで考えなしに発した言葉は、人の人生を変えてしまう。過去に私をいじめていた子達も今はそんなこと忘れているかもしれないけど、伝えたい。
ありのままの私を返して。二度と他の人のありのままを奪わないでねと。
キャラなんかなくても愛されるようになりたい。