私は学生の頃、自分の嗜好が他の人に知れることを極端に恐れていた。
例えば本。自分が本当に好きな本について語ることで、それをバカにされたりしたらどうしようというのもあったけれど、私は、誰かに自分の頭の中を覗かれて、自分の考えていることががなんとも普遍的で、特別でもなんでもないという評価を下されるのが怖かったのである。
自分の好きなものに対する熱い思いを胸にしまっていた
だから私は、何が好き?と聞かれても、周りの人が夢中になっているものを自分も好きと言ってみたり、特に趣味はないと言ってみたりして、当たり障りのない私を演出していた。
でも、1人でいる時には、バイブルと呼べる本に出会い、何本もの映画に心を震わされ、憧れの人のファッションスナップを頭に焼きつけた。そんなふうにして、密かに自分の好きなものに対する熱い思いを胸にしまいながら、ある時思った。
この気持ちを理解してくれる誰かと、語り合ってみたい。
私が好きなものを同じく好きだと言う人に出会ってみたい。
だが、そう思って周りを見渡したときに、今まで自分が誰かと熱く本当に好きなことを語り合ったことがないことに気づいたのである。穂村弘が「蚊がいる」というエッセイの中で、こんな趣旨のことを言っていた。
「内気は罪だ。どんな嗜好、価値観でも、外に発信し続けさえすればそれに共鳴する人は必ず存在する。ヤクザが好みのタイプという女性はほぼいないにも関わらず、ヤクザの隣には常に女がいるように!!」
私はヤクザと実際に対面したことがないので、ヤクザの実情はわからないけれど、これにはハッとさせられるものがあった。
当たり障りなく誰にも嫌われないけれど、誰の目にも止まらないSNS
今まで自分は、浮きたくないという気持ちゆえに自分が本当に好きなものを心の中に閉じ込めたままで、外に発信してこなかった。当たり障りのないことを書いて、誰にも嫌われないけれど、誰の目にも止まらないSNS。
そこからずっと考えている。
自分は他人にどう見られたいか。
自分は他人に自分をどう見せたいか。
今までの私は、他人にどう見られたいかばかり気にしていて、見せたい自分がなかった。でも、今はそれがすこし変わってきている。もちろん、今も、浮きたくない、変に思われたくないという気持ちは私の中に存在しているのだけど、本当の自分を曝け出したい、人の目を気にするのではなくて自分が好きな格好をして街を歩きたい、というふうに思うことが増えてきたのだ。
この2つの感情は、今も私の中でぶつかり合い、戦いを繰り広げている。どちらが優勢かによって、私の気分は全然変わる。
自分を魅せたくても、内向的な性格で。自分にむず痒くなってしまうの
今日は、特に何かあるわけじゃないけど、一張羅のワンピースを着て、ヒールのある靴を履いて真っ赤なリップを塗って外に出てみようと強気でいる時もあれば、周りの視線が怖くて、当たり障りのないスウェットにデニムにスニーカーという出立ちでこそこそと縮こまって街を歩くこともある。
常に強気でいたい、自分を魅せたいと思っていたいけれど、生来内向的な性格なのでそうもいかない。そんなふうな自分にむず痒くなってしまうのである。
でも、私の中には常に熱い感情が渦巻いている。自分の中で、たくさんの素晴らしく、素敵な作品によってじっくりと育てられた情緒が、今外に向かって枝を伸ばしているのだ。これが紛れもなく自分である。それを見せなくてどうする。