キャラが大事だと気がついたのは小学六年生の頃だった。
少し前までは私と一緒に全力で変顔をして、大声でギャグを言っていた友達は、いつのまにか小さい身長と高い声を生かして「妹キャラ」になっていた。(同じ学年なのに妹ポジションというものが存在すること自体、当時の私にとっては不思議で仕方なかった。)

自分をキャラに当てはめることのメリットを知った頃にはもう遅かった

勉強が出来て眼鏡をかけていた男子は「ガリ勉キャラ」になっていたし、絵が上手で何事もそつなくこなすあの子は「優等生キャラ」、いつも遅刻しておちゃらけるあいつは「おとぼけキャラ」。みんなそれぞれ自分の特技や特徴を活かしたり、自分の理想像を上手にアピールして様々な「キャラ」に当てはまっていった。
自分をカテゴライズすることでアイデンティティが生まれ、キャラに沿った行動をとることで周囲から安定した評価を得ることができるのだと知った。
でも、知った頃にはもう遅かった。
私にはもう「キャラの枠」が余っていなかったのだ。ひどく焦った。
このままでは自分は何者でもないただの空気になってしまう!なんてことまで考えていたのだ。それに私は学校でキャラの作り方なんて教わっていない!!

かろうじてゲットしたお笑いキャラを、好きな人がいてもつき通した

ずるいとさえ思った。だって、普段遅刻しない私が遅刻したら怒られるのにおとぼけキャラのあいつは遅刻しても先生に少しいじられるだけだった。不公平である。
不公平であるはずなのにそれが当たり前で、異を唱える私の方が変な気がしてきてすごく惨めで孤独だった。
かろうじて残っていたお笑いキャラをゲットした私はそれから必死でみんなを楽しませ、笑わせた。時には自虐ネタも言ったりしたが、今思うと結構無理してたな。
好きな子ができた時も可愛い女の子になりたかったが、「お笑いキャラなのに可愛こぶってる」と周囲に思われるのが怖くて恋心を殺してお笑いキャラであり続けた。
中学、高校、大学と大人になるにつれてキャラをコントロールして、場面によって変化させることを覚えてからはキャラを苦に感じることも少なくなっていった。むしろ便利だなと思う時もあったくらいだ。

大人になった今でも「キャラ」とは何なのかを考えている

しかし、今でも考えている。「キャラ」とは何なのか。
自分らしさを追求したものがキャラとなりどんどん誇張される。そのうちにキャラが一人歩きし始め、自分はキャラという偶像に縛られ自分じゃなくなる。
私は人間誰しもが持つ、自分の中にある矛盾を愛おしいと思う。
私の場合、他人にはその人本人にしかわからない感情や事情があるから一方的にこちらが判断して好き嫌いの感情を抱くのは良くない。と考える反面で、人の好き嫌いがはっきり分かれてて嫌いな人とは速攻で距離を置く。という大きく矛盾する二つの考え方を持っている。「人という字は人と人が支え合ってできている。」ときんぱっつぁんが言ってたように、私という人間は二つの相反する感情が支え合い、反発し合い、押し合いへし合いをして1人の私を形成しているのだろう。どちらかの感情や考えを誇張してキャラにしたところでそれは一見、私のようで私ではないのである。